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東京主僕教会の最近一か月の説教など

礼拝に来ることができなかった方、教会に関心のある方のために牧師が作成しています。どうぞ、礼拝にも来てみてください。

2017年3月5日礼拝説教

説教本文

「誰が責任を負っているのか」マタイ4・1-11     

 

 教会の暦では先週の水曜日の「灰の水曜日」と呼ばれる日から、イエス様の苦しみと十字架を覚える受難節が始まりました。今日のマタイによる福音書の御言葉はこの受難節の第一の日曜日に読まれる聖書の御言葉の一つですが、過去の記録を読むと、ちょうど6年前の東日本大震災が起こった直後の3月13日の日曜日の朝にも読んだ聖書の箇所でした。

 

 驚くような揺れを経験し、大変な映像を見つめていくなかで、多くの人々の命が失われ、混乱が続いていたことを想い起こします。その爪痕による苦しみは今も残り続けています。イエス様が「神の子なら」と繰り返し問われたように、私たちも本当に自分は神の子なのか、神は本当に自分を愛し導いて下さっているのか、この世界をどう考えたらよいのかと思わされます。それはなお、私たちの心を覆っています。イエス様が荒れ野で受けられた誘惑は、私たちの人生にもたびたび起こってきます。けれども、そのことに対する答えがイエス様の荒れ野の誘惑です。この荒れ野の誘惑を受けられたイエス様から、私たちは勇気と希望を与えられることができるのです。

 

 今日の聖書の御言葉には悪魔という言葉が出てきます。創世記を見ても、どうして悪魔が存在するのか、その起源は書かれていません。しかし、聖書における悪魔の存在は、この世界には、神に敵対し、人を神から引き離していく罪の力が現実に働いていることを示しています。悪魔がイエス様のもとに現われたのは、40日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた時でした。悪魔の誘惑は巧妙です。空腹の絶頂を迎え、心身が一番弱くなった時、まさにその時を狙って、イエス様の前に現れ、誘惑しました。3節「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」。パレスチナの荒れ野には小さな石がたくさん転がっています。荒れ野にいるイエス様が手元にある石を見て、これがパンになったらどんなによいだろうか、と何度も思ったとしても不思議ではありません。しかし、パンに変えて、自分の空腹を満たすことは、神の子としての救いの力を、自分の空腹を満たし、自分を救うために使うことを意味しているのです。

 

 イエス様は旧約聖書申命記8章で荒れ野を旅するイスラエルの人々の命を支えた天からの食物、マナについて語る御言葉を引用して答えられました。マナが与えられたのは、人がパンだけによって生きることを教えるためでなく、神の口から出る一つ一つの言葉によって生きることを教えるためであった、と言われています。パンは私たちにとって大事なものです。パンを食べてはいけないと言われているのではありません。イエス様は神の御心、神の言葉を土台にして人生を生きるのだ、と言われます。その神の御心は御自分を救うことではなく、御自分をとおして全ての人に命をもたらすことでした。それほどまでに私たちを見捨てることなく、愛して下さっています。何が起こったとしても、神さまは私たちを愛し、見捨てることはありません。どんな時も私たちを救う神の愛は揺らぐことはありません。それが第一の誘惑に勝利したイエス様に現われています。

 

 イエス様はその神の愛の御心に忠実であったからこそ、ここで悪魔の誘惑を拒絶されました。その時、悪魔は二つ目の巧妙な誘惑を始めます。それはイエス様の神の言葉への強い信頼、そこを狙ってきたのです。弱さにつけこんできた悪魔は、今度はその強いと思えるところを狙ってきたのです。崩れることがないとしか思えない強さ、その強さをめがけて襲ってきました。悪魔は一瞬のうちにイエス様をエルサレムの神殿の屋根の端に立たせて、こう言いました。「神の子なら、飛び降りたらどうだ」。神の語られた御言葉を本当に信頼していると言うならば、この御言葉を実行してみたらどうだ。「『あなたの足が石に打ち当ることのないように、天使たちは手であなたを支える』と書いている」。これも申命記の言葉です。けれども、イエス様はこの誘惑を退けられました。「あなたの神である主を試してはならない」。神が本当に守ってくれるかどうかを試すことは、神への信頼からではなく、神への不信、疑いから生まれます。悪魔の提案は、神が本当に御言葉を実現するように、自分から神さまにその約束を実現するように迫りなさいというものでした。しかし、それは、神を自分の願いに従わせ、自分を神とし、神を自分の僕とすることです。創世記で、蛇にそそのかされたアダムとエバは、神の場に自分を置いてみようとしましたが、その結末は、神のようになるどころか、神の前に恥ずかしい自分、自分を覆わざるを得ない結末となったのです。人は神になることはできません。イエス様はこの誘惑を拒否されます。

 

 この世界には私たちの心を揺るがす様々な出来事があります。この世界も自分もどのようになってしまうのか、不安と恐れがいつもつきまといます。けれども、神はどこまでも私たちに御言葉を実現してくださる神であり、神は私たちの主人であり、この世界の主人なのです。この世界と私たちに責任を持って、導いて下さいます。このことにイエス様は信頼されていました。何があってもこの世界と私たちを責任をもって導いてくださる神である。だからこそ、何があっても希望を持つことができます。

 

 イエス様の弱さにつけこみ、今度は強さにつけこんで誘惑した悪魔はそれが全て失敗するのを見ると、今度は正面から全力でイエス様を襲って誘惑してきました。それが第三の誘惑です。悪魔はさらにイエス様を高い山に連れていき、世の全ての国々とその繁栄ぶりを見せて、言いました。「もし、今、ひれ伏して私を拝むなら、今、これをみんな与えよう」。今この場でほんの少しの時間でもいいので悪魔を拝むなら、今すぐにこの世界の繁栄の全てを与えようと言われました。最大の誘惑が襲ってきました。確かにイエス様は最後に全ての国々、全ての王となられます。でも、悪魔の提案は、これから経験していく御受難の道、十字架と復活を省いて、今すぐに救い主になるようにという提案でした。

 

 今日の聖書の箇所に「人はパンだけで生きるものではない」というイエス様の御言葉があります。明らかにこの「人」にご自分もその一人として語られている言葉です。イエス様は神でありながら、私たちと同じ人となり、私たちの弱さを引き受けて下さいました。イエス様は私たちの弱さ、罪の悲惨、苦しみと悲しみのあるこの世界、私たちを見捨てません。私たちの罪、それゆえの永遠の死を引き受けて死なれ、私たちを赦し、愛する神の子としてくださいました。この罪と悲惨、苦しみのあるこの世界に命の道を開き、神の救いの完成を始めて下さいました。ここには、私たちが神のもの、神の愛する子供であることを明らかにするために、神を愛し、神にのみ仕え、御受難と十字架の道を歩んで下さることが示されています。

 

 荒れ野の誘惑が受難節の始まりに読まれてきたのは、この悪魔の誘惑がこの後の人生にも襲ってくるからです。悪魔の誘惑は御受難において、十字架において頂点に達していくからです。この受難節の始まりにイエス様は神さまの御言葉、神さまの愛に御心を自分の心とされました。神の御言葉を人生の土台にされることから始まるのです。イエス様の受けられた誘惑は、私たちの人生に起こってくる誘惑でもあります。人生の荒れ野において誘惑が起こってくることを避けることはできません。私たちが生きるこの世界には私たちを神から引き離す悪の力が働いています。しばしばアダムとエバのようにこの誘惑に負けてしまう自分の弱さを思い知らされます。けれども、イエス様はこの悪魔の誘惑に勝利し、神さまが私たちを愛し、私たちの全てに責任を負い、私たちを神のものとして下さっていることを示して下さいました。誘惑に直面した時、自分の弱さを思い知らされます。けれども、その弱さを受け容れ、キリストを仰ぐ時、支えられ、強められていくことができます。私たちは弱くとも、私たちをご自分のものとしてくださるキリストは強いのです。

 

 今日の聖書の御言葉と一緒に読まれる聖書の御言葉の一つは、エフェソの信徒への手紙の6章11節からの言葉です(p359)。「最後に言う。主に寄り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身につけなさい。~信仰を盾とし、救いを兜として取り、霊の剣、すなわち、神の言葉を取りなさい」。この御言葉も受難節に読まれる聖書の御言葉ですが、主に寄り頼み、とは、主に結ばれているもの、主のもの、神のものとされているものとして、ということです。その偉大な力によって強くされるのは、神への信頼を盾とし、神の子、神のものとされている救いを兜としてとり、神の言葉を携えていく時です。その時に私たちは荒れ野において強くされ、立っていくことができます。神の言葉を人生の土台として携え、神の愛の救いの御心に心を開いていくことが私たちの受難節の始まりなのです。

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