読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

東京主僕教会の最近一か月の説教など

礼拝に来ることができなかった方、教会に関心のある方のために牧師が作成しています。どうぞ、礼拝にも来てみてください。

2017年3月12日礼拝説教

「神に愛されている私たち」ヨハネ3・16-17     

 

 昨日の3月11日は6年前に起きた東日本大震災原発事故によって今もなお続いている悲しみと苦しみについて多くのテレビ番組や新聞で特集が組まれました。震災が起きた後、私が印象深く覚えているのは、大津波に襲われて教会の建物もなくなってしまった

 

気仙沼の教会で、瓦礫の中に流木で十字架が建てられた写真です。またもう一つ、陸前高砂の教会では津波で建物が流されてしまいましたが、ただ一つ十字架が傾きながら残りました。その十字架で建てられた十字架の塔の写真です。その十字架の塔は教会の人々が地域の復興を願って再建しました。

 

 その塔には私たちの教会の週報にもあるコリントの信徒への言葉が刻まれています。コリントの信徒への手紙一13章13節「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である」。そして、その後、このような言葉が刻まれています。「私たちは十字架を通して示される神の御子イエス・キリストにある信仰と希望と愛を一人でも多くの方々に知っていただくことを願っています」。この十字架の塔を建てた人々は、イエス・キリストの十字架によって神の愛を見いだし、この愛に触れるたびに慰めと希望が与えられてきたことが分かります。十字架は私たちにとっても慰めであり、希望を示しています。

 

 このキリストによる神の愛を示しているのが今日の聖書の御言葉です。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」宗教改革者のマルティン・ルターはこの聖句に聖書が全て要約されていると言いました。この御言葉は聖書の福音の要約、中心と言われる大事な御言葉です。今朝、この聖書の御言葉を中心に私たちに慰めと希望を与えるイエス様の福音に聞いていきたいと思います。

 

 今日の聖書の御言葉には「」という言葉がでてきます。この「」とは悲しみや苦しみの起こっているこの世界のことであり、神さまを悲しませることが多く起こっているこの世界のことです。苦しみや痛み、罪を抱えているこの世界の全ての人々です。そして私たち一人一人を指す言葉でもあります。「」という言葉に自分の名前を入れて読むと身近な言葉になってきます。

 

 しかし、神さまが私たちを愛して下さっているということは、どういうことでしょう。愛されているということはとてもうれしいことです。自分が大切にされている、ということです。自分を大事にしてくれている人がいるということです。自分を大切にして大事にしてくれる人がいなければ、とても悲しくつらくなってきます。でもどんな時も神さまは見捨てることなく、いつも変わることなく私たちを大切にして大事にして下さっています。

 

 その神さまの愛を私たちに証明するために神さまは一つの行動をとられました。神さまの愛は具体的な行動となって現われたのです。大事な独り子であるイエス様を私たちに与えて下さったのです。イエス様が苦しみ、死なれるということは歴史的な事実です。イエス様は私たちの全てをご自分のものとして背負い、十字架の苦しみと死を遂げて下さいました。このイエス様によって、私たちの罪は赦され、神さまが共に歩んで下さる、という永遠の命が与えられました。

 

 自分のことを考えると、どうしようもない自分だ、つまらない自分だなと思える時があります。恥ずかしい自分だと思える時もあります。本当に絶望するしかない自分だと思える時もあります。けれども、そういう私たちを愛して神さまが私たちを受け入れいつも共にいて下さいます。この神さまの私たちに対する愛はどんな時も変わることがありません。

 

 17節に「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」とありますが、ここには大事なことが書かれています。何度も確認していかなければいけない言葉です。私たちの人生には、神さまは私たちに何を望んでおられるのか、神さまの御心は何だろうか、と思える時があります。どうしてこのようなことが起こるのか、神さまの御心が何かと思える時があります。苦しみに直面した時、最終的にどのように対処するのか、それが私たちの課題です。その対処の仕方に私たちの信仰があらわれます。どのような神を信じているのかがあらわれるのです。

 

 今日の聖書の御言葉は、神さまの御心という時に一番大事なこと、ボトムライン、最低線を示しています。それは、「神さまがどんな時も、私たちを裁くことよりも、私たちを愛することに関心を持たれている」ということをはっきりとさせているということです。この後の17節には「信じない者は既に裁かれている」という言葉がでてきます。「裁き」とは神さまの視点、神中心の見方を失ってしまうことです。何が本当に悪いことなのか、そのことが分からなくなってしまうことです。神さまから離れ、自分を見失ってしまうことです。けれども、私たちに対する神さまの愛は変わることはありません。どんな時も私たちの全てに関心を持ち、神さまと共に生きる永遠の命に生きていくことを望んでおられます。

 

 私たちが苦しみの中で本当に支えられ生かされていくのは、神さまが自分を裁き、見捨てているのではない神であり、自分を愛し、赦し、共に歩んで下さっていることを信じる時なのです。イエス様の苦しみと十字架の死、十字架はどんな時もその神さまが私たちを見捨てずに私たちを愛し共にいて下さることの印です。絶望しかない所にも命の道が開かれ、私たちには希望があることの印なのです。

 

 1970年にヒットしたアメリカのサイモン&ガーファンクルというグループの「明日に架ける橋」という歌があります。この歌はベトナム戦争で傷ついた人々を励まし、希望を与えました。そして、時と場所を越えてアパルトヘイトの差別に苦しんだ人々を励まし、希望を与え、今でも外国の教会の集会では歌われることが多いようです。

 

 この歌詞は次のようなものです。「君が疲れて、しょげているなら、瞳に涙があふれているなら、ボクがすべてふいてあげるよ。辛い時だって、友だちが近くにいなくても、ボクは君のそばにいるよ。慰めてあげるよ。暗闇が訪れ、苦しみに包まれた時も、ボクは、必ず君の味方だよ。荒れた海に架かる橋のように、ボクが体を横たえるから。ボクが激流の上にかかる橋のように君を守ってあげるよ。さあ、立ち上がって、前に向かって歩きだそう」。

 

 この歌詞には、ボクが身を投げ出して橋となる、というような言葉が繰り返しでてきます。ポール・サイモンはこの歌詞を書いたとき、仲間と対立し、それこそ孤独のどん底にいたと言われています。しかし、誰かが一緒にいてくれれば人は生きていける、そう思ったのです。この歌は、私たちを愛する神さまの御心に従って、ご自分の身を差し出し、投げ出して、橋となってくださり、共にいてくださるイエス様の姿を思い起こさせます。どんな時にも、涙があふれる時にも、孤独に震える時も、私たちのために自らの命をかけて身を横たえ、激流の上に自らを差し出して、「明日に架かる橋」となり、私たちと神を結ぶ架け橋となって、私たちと共にいてくださるイエス様がおられるのです。

 

 今日のイエス様の御言葉は3章の始まりのニコデモという人がイエス様と出会った時に語られた言葉です。年老いた議員であるニコデモは財産もある豊かな人でしたが、満たされぬ思いを抱え、何かを探し求めて、イエス様のもとに人目を避けて、夜、訪れました。イエス様は「人は新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」と言われましたが、この時、ニコデモはそれが何のことだかわかりませんでした。しかし、イエス様が死なれた後、勇敢にイエス様を引き取り、丁寧に埋葬の準備をしています。ニコデモは十字架に示された神さまの愛を信じた時、希望を与えられ、勇気を与えられたのです。自分のことも人のことも愛せるようになったのです。新しい人生が始まったのです。聖書の御言葉を通して、十字架の神さまの愛に触れる時、私たちは人生をやり直していくことができるのです。

 

 この後、讃美歌21の「丘の上の主の十字架」を歌いますが、「最も有名な讃美歌」とも呼ばれています。牧師でもある作者は人生の厳しいつらい時期、教会の宣教の大変な時、この聖句から「十字架の意味は何か」と思い巡らし、この歌詞を書き始めましたが、完成したのは数カ月後のことでした。ささくれだった荒削りの主の十字架にどんな時もすがって新しく歩んでいくことができる。ささくれだった私たちの全てをご自分のものとして担って死なれ、罪を赦し、新しい命を与えてくださった十字架。古びて朽ちた粗末な十字架に思えても、しかし、そこに私たちの希望があります。この十字架によって示されている神さまの愛に心を開き、愛をもって歩んでいきたいと思います。

広告を非表示にする