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東京主僕教会の最近一か月の説教など

礼拝に来ることができなかった方、教会に関心のある方のために牧師が作成しています。どうぞ、礼拝にも来てみてください。

2017年3月19日礼拝説教

「希望は失望に終わらない」ローマ5・1-11     

 

 先週、アメリカのトランプ政権の政策の影響で、家族を抱えたイスラム教の人々が長い道のりをかけて国境を超え、カナダへ入国していく様子がテレビで報道されました。不法入国した人々は逮捕されますが、問題がないとわかれば、難民として申請し、カナダで新しく生活できるというのです。

 

 カナダの首相が「迫害やテロ、戦争から逃れる皆さん、カナダ人は信仰を問わず皆さんを受け入れます」とメッセージを出していますが、テレビでは、国境で待ち受けるカナダの警官が、逃れてくる人々が転びそうな所では優しく手を差し出しながら導いているのが印象的でした。簡単には解決できない複雑な問題が背景にあることは確かです。けれども、希望をもって生活してきて失望し、逃れていく人々にとって、自分たちを受け入れ、手を差し出し、助け、導いてくれるものが一つの新しい希望となっていることを思わされました。

 

 今日のローマの信徒への手紙には「希望」という言葉が2節、4節、5節で繰り返しでてきます。この手紙は伝道者パウロによって書かれていますが、パウロの書いた手紙では順番では終わりの方にあたります。それまでにどんなことが人生に起こったのか、コリントの信徒への手紙二の11章などから知ることができますが、鞭打ちや迫害、飢えや渇き、貧しさ、日々迫る厄介事、実に様々な困難をパウロが経験したことが分かります。今日の聖書の御言葉は、その困難の連続であった人生を振り返りながら、なおその中で自分の人生を支え生かしてきたものは何か、失望に終わることのない希望があることを確認して伝えています。皆さんにも希望と言えるものがいろいろあることと思います。けれども、そのような私たちの人生を包み、支え生かしていく、失望に終わることのない確かな希望、大きな希望があるのです。

 

 パウロが伝える希望は、今日のローマの信徒への手紙5章を読むと、「私たちは信仰によって義とされた」ことから始まっています。信仰義認とは、信じて義とされる、神との関係を失っていた者が神との正しい関係を与えられ、受け入れられるということです。けれども、何を信じるのか、そのことがこの御言葉だけではわかりません。何を信じるのか、それを伝えているのが4章の後半です。アブラハムは、神の約束を信じた、21「神が約束したことを実現させる力もお持ちの方であることを信じた」とあります。そして、神さまはその約束を実現して、主イエスを死者の中から復活させたのだ、と言っています。25「イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられた」。信じるということは、神さまが私たちを救う約束を与えて下さったこと、その約束をイエス・キリストの十字架と復活によって実現してくださったことを信じることです。そして私たちに対する約束を実現するために独り子のイエス・キリストを与えてくださったほど、私たちを信じ愛して下さっていることです。この神さまの愛を信じる時、神との平和に包まれています。

 

 今日の5章の御言葉は8章の御言葉が念頭におかれています。8章31節「もし、神が私たちの味方であるならば、誰が私たちに敵対できますか。わたしたち全てのために御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒に全てのものを私たちに賜らないはずがありましょうか」。神はどこまでも私たちの味方として共にいて下さる神。その確信に溢れている言葉です。神が私たちを受け容れ、いつも味方として共にいて下さる。私たちも今、この平和の中に包まれて立っています。そして、神さまは御子イエス・キリストと一緒に全てのものを私たちに与えるため、神の栄光に与らせるため、どんな時も私たちと共にいて生きて働いて下さっています。

 

 今回、準備の中で新しく教えられたことは、神の平和の中に立っていく時、どんな時も、何があっても、そこで神さまが私たちと共に生きて働いて下さっている、ということです。私たちを愛し、私たちと共にいて下さる神が、私たちに御子と一緒に全ての恵みに与からせるために、救いの約束を完成するために、今も見捨てずに私たちの手を取り生きて働いて下さっています。だからこそ、今、思うにならない現実があっても、日々迫る厄介事があったとしても、その中で、この神さまの働きに、私たちと共に働いている神さまの御業があることに希望を持つことができるのです。

 

 人生を振り返って与えられてきた神さまの恵みを歌う「あしあと」という歌があります。これまでの人生を振り返る時にイエス様と一緒に歩んできた二組の足跡がある。けれども、苦しい時、最後の時に足跡が一組しかないのはなぜか、と尋ねた時、それはあなたを背負って歩いていた足跡だというのです。イエス様が私たちを背負って下さっているのは困難な時だけではありません。どんな時も嬉しい時もうまくいっている時も、私たちを背負い、導いて下さっています。ローマの信徒への手紙の8章の26節から30節には、聖霊が今も弱い私たちのために神の御心に従って執り成して導いて下さっている、万事が益となるように共に働くようにしてくださる、とあります。万事が益となる、ということは、神は悪を善に変えることができること、どんなものも神のご計画を妨げることができないこと、神は私たちを贖い、救いを完成するために、今もこれからも生きて働いて下さっていることの確信が現れている言葉です。義とされた私たちに栄光を神が与えて下さり、これからもこの栄光を与えてくださる、この神の働きがあることに希望を持つことができるのです。

 

 このどんな状況にも働いている神さまの働きがあるからこそ、パウロは3節の「そればかりでなく、苦難をも誇りとします」と言うことができるのです。「苦難」は「圧迫する、押しつぶす」という意味の言葉です。パウロは自分が立ち続けていくことを困難にする苦難、自分を圧迫し押しつぶす苦難の現実があることを知っていました。苦しみに直面し、心身共に疲れ果て、生きる希望さえ失って押しつぶされてしまいそうになる時があります。苦難それ自体がよいものである、とは思えません。けれども、その苦難でさえ誇りとし、喜びとする、と言うことができるのは、私たちと共にいてくださる神さまが与えて下さっている恵みが大きいからです。どんな時も働いている神さまの御業が強いからです。神さまの御業、神さまの恵みがあまりにも大きいので、逆境の中で、私たちを苦しめる力、罪の力、悪の力でさえ、私たちを強めることができるのです。

 

 苦難は「忍耐」を、この「忍耐」という言葉は「下に」という言葉と「とどまる」という言葉の合成語です。何かの下にとどまって忍耐していく。神の愛、神との平和がわたしの下に留まって、支えられていく。この「忍耐」が「練達」を生む。この「練達」という言葉は「試し、吟味され、明らかにされる確かな性格」という意味があります。忍耐の中で本物の性格、キリスト者としてのあり方が形作されていきます。神の愛と恵みに生かされて愛に生きる者とされていく。そして「どんな時も聖霊によって私たちの心に注がれている」神の愛を信じ、この神の愛に希望を持つのです。苦しみに直面してもなお希望を持つことのできる道が開かれています。

 

 聖霊は私たちをキリストへと導き、十字架の犠牲の死によって、どんな時も私たちに対する神の愛が揺らぐことなくいつも注がれていることを教えて下さいます。どんなものも神の愛から私たちを引き離すことはできません。この神の永遠の愛があるからこそ希望を持つことができるのです。

 

 友達と車に乗って無謀な運転で事故を起し逮捕された若者がいました。両親は心を痛めましたが、子供が刑を終え、社会復帰をすることを支えました。その子は警官になりましたが、ある時、「実は自分が運転したのではなく、友人が運転していた」と言うのです。「なんで自分が運転したと言ったんだ」と言うと、こう答えたのです。「父さんや母さんをがっかりさせ傷つけるのは分かっていたけど、それでも自分を愛し、見捨てないでくれることを知っていた。でも友人にはそんな親はいないんだ」。この話はいつも揺らぐことのない愛が注がれている、そのことが私たちに逆境に立ち向かう力を与えることを示しています。

 

 十字架で示された神の愛は永遠に変わることはありません。どんな時も見捨てることなく、私たちを愛し、御子と共に全てのものを与かることができるように働いて下さっています。それが私たちの希望です。神の愛を信じる時、神との平和、神への希望を与えられ、力を与えられます。この希望は決して失望に終わりません。私たちは神の愛を信じ、栄光に与かる希望によって支えられ生かされていく人生へと招かれているのです。

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