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東京主僕教会の最近一か月の説教など

礼拝に来ることができなかった方、教会に関心のある方のために牧師が作成しています。どうぞ、礼拝にも来てみてください。

2017年3月26日礼拝説教

「神の業が現れる」ヨハネ9・1-12      

 

 先週、教会の何人かの方々が練馬で上映されていた「母-小林多喜二の母の物語」という映画を見に行かれました。多喜二の母セキさんは晩年、小樽シオン教会に通い、葬儀も行われたということで、その礼拝堂での撮影は札幌シオン教会の方や札幌近辺の教会の方々が集まって行われたということです。

 

 この映画の原作は三浦綾子さんが書いた『母』という小説ですが、この本のことを聞くと、多くの人が口にされるのは多喜二が書いた『蟹工船』であり、その多喜二の晩年のことです。反戦活動を続けていた多喜二は特高警察の拷問で非業の死を遂げました。この理不尽な死を遂げた多喜二を母セキは受け止められずにいましたが、しかし後にキリスト教と出会い、その信仰によって「赦す心」を抱くようになりました。晩年は教会にも通っていたのです。

 

 理不尽な出来事に直面すると、誰もがどう受け止めたらよいのか、「どうしてこの人に、この自分にこのようなことが起こるのか」と理由を問います。今日の聖書の箇所にも、どう受け止めたらよいのかわからない理不尽な出来事に直面した人がでてきます。

 

 この聖書の物語は、イエス様が目に見えない人をご覧になられたことから始まります。この目の見えなかった人は目が見えないために、人から見捨てられ、仕事が与えられず、物乞いをして生きていました。この時、この人はイエス様が通っても何も願ってはいません。それ程、自分の目が見えるようになることは考えられず、自分の人生に希望を見出せず、過ごしていたのかもしれません。しかし、イエス様はこの人が訴えなくても、この人の全てをご存知です。私たちの全てをご存知です。この人の中にある絶望、私たちの中にある絶望をご存知です。それだけではなく、この人の中にある大きな可能性、そして私たちの中にある大きな可能性を全てご存知なのです。

 

 しかし、弟子たちは目の見えない人を見てイエス様に問いかけました。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか」。このように弟子たちがこの目の見えない人を見て、すぐにこのような問いを口にするのは、この考え方が人間に根深くあるからです。どんなにそうではないとわかっていても、そのことを否定しても、そのことが何度も心に浮かんでくるほどにこの考え方は人の心に根深くあるのです。

 

 この言葉に「因果応報」という思想が現われています。病や災難を何かの報いのように考えます。日本では病や不幸の原因は罰が当たったことにある、何か悪いことをしたからだ、先祖の罪のためだという考えもあります。因果応報的な思想は昔から時代と場所を越え、人を支配してきました。この物語の舞台であるパレスチナにも昔、病など罪から起こるのだ、本人か両親が悪いのだという考え方があったのです。

 

 このような考え方は原因を考える上では明快です。しかし、罰があたった、罪があると言われても、それで苦しんでいる本人の状況が変わるわけではありません。原因や責任を追求することは状況によって必要だし有効なこともあります。正すべきは正していくことが必要です。人間の罪と悪の力によって起こっていることもあります。しかし、原因が分かっても、それで問題が解決しない、その人が現実を本当に生き生きと生きていくようにはならない時もあります。

 

 イエス様はお答えになりました。「本人が罪を犯したからでもない。両親が罪を犯したからでもない」。イエス様は因果応報の思想をはっきりと否定されるのです。罪と不幸、罪と<病や苦しみ>の関係を断ち切るのです。だとするならば、私たちは苦しい出来事に直面した時、どう受け止めたらよいのかわからない、そのような現実に直面する時、どのように考えたらよいのでしょうか。

 

 イエス様は言われます。「神の業がこの人に現われるためである」。イエス様は原因を問い、人を非難するのでありません。そうではなく、この後に起こっていくこと、人生の目的・結果に目を向けます。イエス様は苦しみの中にあっても神がご自分を通して働いてくださるということを確信していました。そしてこの人の苦しみの中でご自分を通して神がこの人に働きかけてくださることを確信していました。イエス様は苦しみの時、罪ではなく、神の栄光に心を向けていきます。

 

 考えてみると、弟子たちはこの目の前の苦しんでいる人の罪を指摘し、冷たい態度を取り、とがめ突き放しているように見えます。けれども、イエス様はそうではなく、この人を神さまは決して見捨てているのではない、神さまは愛してくださっている、この人に神さまが働きかけ表れていく神の御業があり、神の栄光がある、そのことを確信して関わっていくのです。神が私たちに働きかけ、私たちを通して表してくださる神の栄光に心を向けていくことが私たちに希望を与え、変えていくのです。

 

 イエス様は地面に唾をし、唾で土をこね、土をその人の目に塗って、シロアムの池で洗いなさい、と言われます。「唾で土をこねる」。それは、創世記で神が土の塵でアダム・人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられたように、人を新しく創造し生かしていく神さまの愛の御業を示しています。この物語は9章全体に及んでいますが、この9章全体で繰り返し出てくる言葉は「目が開かれた」という言葉です。そのことから、癒しそのものがポイントではなく、「目が開けられた」、イエス様との出会いの中で起こっていることにこの物語の大事な焦点があることに気づきます。「生まれつき目が見えない」ことは生まれた時から闇の中にいたことを意味します。生まれてから光を見たことがなく、闇しか知りませんでした。しかし、その人がイエス様に出会って、その御言葉に従って、目が開かれて、新しい光を見るようになり、新しく生かされていくのです。

 この「生まれつき目の見えない人」の姿は罪の闇の中にいる人間の姿、私たちの姿を示しています。神に心を閉ざす罪に支配された世界、私たち自身をこの人は示しています。しかし、イエス様はこの箇所の直前の8章12節で「わたしは世の光である。私に従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」と言われました。そのことが具体的に起こったのが9章の出来事なのです。5 「わたしは、世にいる間、世の光である」。イエス様は闇に輝く光として、目の見えない人のもとに来られました。そうして、この人の目に触れて、優しい神の愛をもって包みこみ、その目を開き、光を与えました。この人が目を開かれたこと、それは混沌とした出来事が起こるこの世界を包む闇に対して光が勝利したということです。「光は闇の中に輝いている。そして闇はこれに勝たなかった」。ヨハネの1章5節の口語訳聖書の言葉です。この闇に対して勝利している神の栄光、神の光を示されたのがイエス様の十字架と復活の出来事だったのです。

 

 目が開かれた人が見る世界は、闇に勝利した光、イエス様の光、神さまの愛の勝利の中に包まれている世界です。私たちもこの光に包まれているのです。その光の中に包まれている自分を知る時、私たちの心は確かにされます。9節に「わたしがそうなのです」という言葉があります。ギリシャ語では「私はある(エゴー・エイミー)」という力強い言葉です。イエス様が確信をもって「私は世の光である」という時、エゴー・エイミー、この言葉を使われます。私が世の光である。そして、この人もその光に包まれて、私が存在している、わたしがそうなのです、というのです。わたしはわたしとして今、ここにある、と確信をもっています。以前は物乞いをし、生きる意味を見失っていた。しかし、その人が今、自分に起っていることを神との関わりの中で、自分を新しく見つめ直して、自分を確かな存在として受け止め直し、確信を与えられているのです。

 

 目の見えなかった人はイエス様と出会い、その光の中で、神さまに用いられ、暗闇の中に神の光をもたらしていく者、イエス・キリストを指し示し、神共にいます命の光を表していく者とされました。イエス様と出会い、御言葉に従っていく時、人生は変えられます。この人はイエス様に出会い、目が開かれた時から人生の新しいページが始まりました。それまで思ってもみなかった人生の新しい展開が与えられていきます。イエス様を信じ、御言葉に従っていく時、そのことは、病が癒されぬものであったとしても、状況が願うように変えられないことがあっても、そのことは私たちにも起こっていきます。混沌の中から光をもたらしていく者、神の栄光を現していくもの、キリストを指し示していくもの、神の国に仕えるために用いられていくものとされていきます。だから希望があるのです。この目の見えなかった人の物語は私たちの物語でもあるのです。

 

 目を開かれた人が自分を癒した人が誰なのかを知ったのは35節以降です。神から遣わされた人としてイエス様を受け入れ、イエス様を主として信じ、告白し、跪いています。「シロアムの池」の「シロアム」という言葉は「遣わされた者」という意味とあります。受難節を迎えていますが、私たちのために苦しみを受け、十字架で死なれ、私たちの罪を赦し、神のものとして、永遠の命を与えて下さったイエス様こそ、神さまから私たちに遣わされた世の光です。今朝、イエス様は私たちの目にも触れて下さっています。この世の光であるイエス様を信じ、罪を赦された者として従う時、私たちも「シロアム」、「この世に対して派遣された者」となります。神さまは私たちを通してご自分の御業、命の光を表して下さいます。この受難節、私たちのために苦しまれ十字架で死なれたイエス様を世の光として信じ、悔い改めつつ、神の業が私たちを通して現わされていくように、神の愛の器とされていくように祈りたいと思います。私たちも今、闇に勝利した光の中にあるのです。

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