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東京主僕教会の最近一か月の説教など

礼拝に来ることができなかった方、教会に関心のある方のために牧師が作成しています。どうぞ、礼拝にも来てみてください。

2017年3月26日礼拝説教要約

「神の業が現れる」ヨハネ9・1-12  

 

 生まれつき目の見えなかった人は、目が見えないために、人から見捨てられ、仕事が与えられず、物乞いをして生きていました。この時、この人はイエス様が通っても何も願ってはいません。それ程、自分の目が見えるようになるとは考えられず、自分の人生に希望を見出せず、過ごしていたのかもしれません。

 

 しかし、イエス様はこの人が訴えなくても、この人の全てをご存知です。私たちの全てをご存知です。この人の中にある絶望、私たちの中にある絶望をご存知です。そして、それだけではなく、この人の中にある大きな可能性、私たちの中にある大きな可能性を全てご存知なのです。


 弟子たちは目の見えない人を見てイエス様に問いかけました。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか」。このように弟子たちがこの目の見えない人を見て、すぐにこのような問いを口にするのは、この考え方が人間に根深くあるからです。この言葉に「因果応報」という思想が現われています。因果応報的な思想は昔から時代と場所を越え、人を支配してきました。


 「本人が罪を犯したからでもない。両親が罪を犯したからでもない」。イエス様は因果応報の思想をはっきりと否定されるのです。罪と不幸、罪と<病や苦しみ>の関係を断ち切るのです。だとするならば、私たちは苦しい出来事に直面した時、どう受け止めたらよいのかわからない、そのような現実に直面する時、どのように考えたらよいのでしょうか。

 

 イエス様は私たちに言われます。「神の業がこの人に現われるためである」。イエス様は原因を問い、人を非難するのでありません。そうではなく、この後に起こっていくこと、人生の目的・結果に目を向けます。イエス様は苦しみの中にあっても神がご自分を通して働いてくださるということを確信していました。そしてこの人の苦しみの中でご自分を通して神がこの人に働きかけてくださることを確信していました。神が御子キリストによって、私たちに働きかけ、私たちを通して表してくださる神の栄光があるのです。そこに心を向けていくのです。 


 この人の目が開かれたことは闇に対して光が勝利したことを示しています。イエス様を信じ、御言葉に従っていく時、病が癒されぬものであったとしても、状況が願うように変えられないことがあっても、イエス様の光の中にあるこの世界において神の御業に用いられ、闇の中に神の光をもたらしていく者とされていくことが私たちに起こっていきます。混沌の中から光をもたらしていく者、神の栄光を現していくもの、キリストを指し示していくもの、神の国に仕えるために用いられていくものとされていきます。だから希望があるのです。この目の見えなかった人の物語は私たちの物語でもあるのです。


 受難節を迎えています。私たちのために苦しみを受け、十字架で死なれ、私たちの罪を赦し、神のものとして、永遠の命を与えて下さったイエス様こそ、神さまから私たちに遣わされた世の光であり、闇に勝利した光です。この世の光であるイエス様を信じ、罪を赦された者としてイエス様の御言葉に従っていく時、私たちも「シロアム」、「この世に対して派遣された者」となります。神さまはどんな現実の中にあっても私たちを用いて自分の御業、命の光を表して下さいます。そのために祈りたいと思います。私たちも今、闇に勝利した光の中にあるのです。

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