東京主僕教会の最近一か月の説教など

礼拝に来ることができなかった方、教会に関心のある方のために牧師が作成しています。どうぞ、礼拝にも来てみてください。

2017年4月2日礼拝説教

「神が涙を流される時」ヨハネ11・28-44    

 

 今朝の礼拝の招きの言葉の聖書の御言葉は、今日の聖書朗読で読んだ聖書の箇所の直前でイエス様が語られた御言葉です。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」(25、26節)。

 

 この御言葉は教会の葬儀で必ず一度は読む聖書の御言葉です。葬儀を司式する時、この御言葉を信じなければ、一連の葬儀にたずさわることはできません。この御言葉を信じるからこそ、エゼキエル書37章11節で「我々の骨は枯れた。我々の望みはうせ、我々は滅びる」とある圧倒的な死の現実の希望のなさ、深い悲しみと嘆きの只中にありながら、それに飲み込まれることなく、大きな希望を見つめていくことができるのです。


 今日の聖書のラザロの物語は11章全体を読むと、その筋が明らかになってきますが、お時間のある時に読んで、味わっていただきたいと思います。このラザロの不思議な出来事は、ヨハネによる福音書の2章のカナの婚礼から始まっていく、「しるし」と呼ばれるイエス様の不思議な出来事の最後の出来事です。この最後で、これまでの数々のしるしの大きな意味が明らかにされています。それは、私たちのもとに来てくださったイエス様こそ復活そのもの、命そのものであり、そのイエス様が私たちに命を与えてくださる、ということです。このことを明らかにするために、数々の不思議なしるしが行われました。このことが今朝、私たちに与えられている福音なのです。しばらくの間、この25節と26節の御言葉を念頭に置きながら、特に28節からの御言葉を特に聞いていきたいと思います。

 

 今日の聖書の御言葉を読む時に、今日の説教題にもさせていただきましたが、イエス様の心の大きな動きに注目せざるを得ません。33節で「心に憤りを覚え」、35節「涙を流され」、再び38節で「心に憤りを覚え」るとあります。最初の33節の言葉は、もともと「馬が鼻を鳴らす」仕草を表す言葉で、激しい怒りを指す言葉です。しかし、この箇所だけでは、イエス様は何に激しく怒り、興奮しているのかは定かではありません。「この病気は死で終わるのではない。イエス様が復活であり、命である、ご自分を信じる者は死んでも生きる」。イエス様が言われたこの言葉を信じることができない人々を怒っているのでしょうか。決してそうではありません。

 

 このラザロの物語を始めから読んでいくと、どうしても気になるのは、6節「なお二日間同じ所に滞在された」ということです。イエス様がついた時にはすでに親しいラザロは死んでから四日たっていました。ラザロとその姉妹がいたベタニアからイエス様がいる所まで歩いて一日はかかります。ですから、イエス様がラザロの知らせを最初に聞いた時、その時、実はすでにラザロはなくなっていたことが分かるのです。だとするならば、どうしてすぐに駆けつけないのでしょうか。特に友人として親しくして愛していたラザロの死です。その姉妹に悲しみと嘆きが襲っています。イエス様は愛する人々のもとにすぐに駆けつけたかったに違いありません。しかし、「なお」、この言葉は「それゆえに」と訳せる言葉です。しかし、愛するがこそ、それゆえに、二日間滞在されたのです。それはどういうことなのでしょうか。

 

 14節「ラザロは死んだのだ。私がその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとって良かった。あなたがたが信じるようになるためである」。このように見てくると、イエス様が二日間滞在されたのは、何かをしていたからとても忙しくて手を離せなかったわけではないことが分かります。悲しみに打ちのめされていたから、ということでもないのです。悲しみと痛み、言葉にならない思いがあったとしても、その中で、確かなことは、ただ父なる神さまの御心に従って、ラザロを愛するがために、愛するラザロを復活させるために、その死の事実が決定的になるのを待っていたとしか私には思えません。

 

 昔のパレスチナでは、人が亡くなると、その日のうちに埋葬されました。到着する4日目には、死は確固たる事実になっています。かつて誰も打ち破ることのできなかった、この確固とした死の力に対して、命そのものであるイエス様が立ち向かい、挑戦し、戦っていく姿勢をとっているのです。この聖書の箇所の説明で、ある人は、イエス様のことを「まるでリングにのぼるレスラーのようだ」と書いています。これから敵として戦うべき圧倒的な死の力、そしてその死がもたらす悲しみと痛みの現実を前にして、それを見据えて憤り、激しく怒り、興奮して、呻き、勝利を確信してリングにあがっていくのです。

 

 そしてイエス様はマリアや一緒に来たユダヤ人たちが泣いているのを見て涙を流されました。「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」、この御言葉のように、イエス様が私たちと完全に一つとなってくださっている。わたしたちの心の深い悲しみを経験し、よく分かってくださっていることが示されています。このイエス様が、いついかなる場所であっても、私たちと共にいてくださるからこそ、慰めを与えられ、支えられるのです。全てのことを同じように経験し分かって下さるイエス様が一緒にいてくださるからこそ、愛する者と別れがたく、涙を流し嘆くことがあっても、決して絶望する必要はありません。このイエス様が死の力に対して激しく憤り、死の力に勝利して、愛する者を復活させ、命を与え、救いを完成してくださるからです。死はもはや本当に「眠り」に過ぎず、最後の敵ではなくなったのです。

 

 今日の聖書の箇所が、教会の暦で、この受難節に読むように指示されているのには意味があります。この出来事が来たるイースターのプレビュー、下見、予告だからです。ラザロが復活したように、「わたしは復活であり、命である」、このことの最後のしるしとして、イエスご自身が十字架で死なれ、復活されたのです。イエス様が持っておられた命は死で終わることはありませんでした。この命を私たちに与えてくださるために、イエス様は十字架の道を始めてくださいました。

 

 ベタニアはエルサレムに近い場所でした。イエス様を殺そうとする人々が出入りしていた場所です。53節にこのラザロの復活の結果、「この日から、彼らはイエスを殺そうと企んだ」とあります。イエス様は、ラザロを復活させることで、ご自分の身に何が最終的にもたらされるのかをご存知でした。しかし、それを知った上で、自ら墓の中のラザロに向かって、命がけで激しく「大声で叫ばれた」のです。ラザロを愛し、私たちを愛するイエス様の壮絶な思いが伝わってきます。ラザロを愛し、そして私たち一人一人を愛して、ご自分の復活の命を与えるために、イエス様はご自分が犠牲となって捕えられ、苦しみを受け、十字架で死なれていく歩みを始めてくださったのです。

 

 「良い羊飼いは羊のために命を捨てる」。永遠の命はイエス様の死を通して与えられます。イエス様がご自分から苦しみを受け、十字架で死なれたのは、私たちの罪を赦し、ご自分の命を与えるためであり、その命によって私たちが生かされていくためです。私たちはイエス様に背負われ、結ばれて、父なる神との交わりを与えられています。キリストがご自分の中に私たちを包みこみ、父なる神との交わりに与からせ、私たちと共にいて下さいます。この神との交わりが命です。この命を与えてくださるイエス様が共にいるならば、たとえ死んでも生きるのです。終わりの時にラザロのように体の復活の約束を与えられています。イエス様はラザロのように私たちの名前を呼んで、罪と死の支配の中から私たちを連れ戻し、取り戻し、命を与えて下さっています。イエス様は共にいてくださり、終わりの時に復活させ、永遠の命の全てを完成してくださいます。神さまは私たちが滅びて死ぬことではなく、生きることを望んでおられます。この新しい創造が始まっているのです。

 

 今回の準備で改めて教えられたことがあります。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」。このマルタに対するイエス様の御言葉は「いつかラザロは復活するから、天で再び会えるから、安心しなさい」ということではありません。イエス様は、今ここで、復活そのもの、命そのものとして、私たちと共にいてくださいます。イエス様がいる所、そこに復活があり、命があります。今ここで、イエス様を信じるなら、この命を与えられ、この命に与かり、生きることができます。たとえ死んでも生きるのです。この出来事を通して示されているのは、イエス様が私たちに与えてくださっている命は、死の力よりも強いということです。どんなものも神の愛から私たちを引き離すことはできません。私たちを包んでいた死の覆いは、私たちに命を与えられ、ほどかれています。このイエス様とのつながり、きずなを大事にして見つめていく時、ラザロにそうであったように、私たちの人生において、何があってもキリストが共にいてくださり、最善を私たちにもたらすために生きて働いてくださることを信じることができるのです。だから、安心して、勇気を出すことができるのです。

 

 今日から、聖餐式のある礼拝では、ニカイア信条を告白していきます。ニカイア信条は聖餐式のある礼拝に特に適切な信仰の告白です。この信条に、わたしたちがどのようにキリストの命を与えられ、その命に養われていくのか、その道筋が示されているからです。「主は、神のひとり子、すべての世に先だって父より生まれ、光よりの光、まことの神よりのまことの神」、神の命そのものであり、その命が、「人間であるわたしたちのため、わたしたちの救いのために天よりくだり」、「十字架につけられ、苦しみを受け、葬られ、聖書にあるとおり三日目に復活し、天に昇り、父の右に座しておられ」、終わりの時、再び来てくださいます。私たちがこの死の力よりも強い主の命を与えられていくのは、「主にしていのちの与え主なる聖霊」の働きによっています。聖霊の働きのなかで、旧新約の聖書記者、「預言者を通して語られた」聖書によって、キリストの命の中へ導かれ、キリストに繋がれていきます。キリストと共に死に、キリストと共に生きる者となる。その確かな印である洗礼を受け、罪を赦されている者として、聖餐をとおしてキリストの命に与かり、「死者の復活と来たるべき世の命を待ち望みます」。聖餐はこのキリストの命に養われ、生かされていく時です。

 

 熊本の教会の先生がこのように書いている文章がありました。長いですが、少し引用をさせていただきます。

 

 「このような震災に遭うと、多くの人々は『神は自分たちを見放した』と感じるかもしれません。『神も仏もあるものか』と嘆く人々もいるでしょう。しかし、礼拝を通して、神さまを最も近くに感じるがことができるのは何よりの喜びであり幸いであります。震災後に迎えた昨年のクリスマスでは、特に訪問聖餐に力を入れました。教会員の中には震災の影響で礼拝に出席できなくなってしまわれた方々もおられます。病床で聖餐に与る時に、わたしたちはキリストの救いを互いに確かめ合い、共に喜び合うことができました。どんなに孤独で寂しさを感じていたとしても、認知症が進み、この聖餐の意味していることがたとえ分からなくても、その存在の全てを受肉されたキリストがご自分の御体の中に受け入れてくださっている。このキリストの交わりから決して漏れていないことをそこで共に体験することができたのです。それ以上の慰めがどこにあるでしょうか。聖餐に与ることが教会の牧会の中心だと改めて教えられています」(季刊 教会 No.106.p3)。

 

 イエス様は私たちを苦しめる死の力に憤り、私たちの罪、痛み、苦しみを共にしてそれを経験し、復活をしてくださいました。私たちはこのキリストの命の中に包まれています。このキリストの命に支えられ、養われ、生かされていくことができます。キリストを信じる時、私たちに命が与えられ、私たちの人生が変えられていくのです。


 この受難節、私たちを愛し、私たちのために十字架の死の道を選んでくださったイエス・キリスト、復活であり命であるキリストを信じ、豊かな命を与えられて歩んでいきたいと思います。そして、ラザロのように、私たちが命を与えられ、死の覆いをほどかれているように、私たちも、この世界の全ての人々に主の命が与えられ死の覆いがほどかれていくことを祈りつつ、命の福音を伝え、神の愛をもって神と人とに仕えていきたいと思います。

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