東京主僕教会の最近一か月の説教など

礼拝に来ることができなかった方、教会に関心のある方のために牧師が作成しています。どうぞ、礼拝にも来てみてください。

2017年4月2日礼拝説教要約

「神が涙を流される時」ヨハネ11・28-44

 

「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」(25,26節)。葬儀を司式する時、

 

 この御言葉を信じるからこそ、死の現実の望みのなさ、深い悲しみと嘆きの只中にありながら、大きな希望を見つめていくことができます。ラザロに起こった不思議な出来事は、私たちのもとに来てくださったイエス様こそ復活そのもの、命そのものであり、そのイエス様が私たちに命を与えてくださることを示しています。


 しかし、イエス様はこの時、何に激しく怒り、興奮しているのでしょうか。イエス様が言われた言葉を信じることができない人々を怒っているのではありません。イエス様は愛する者を復活させることを明らかにするために、死が確固たる事実となるのを待っていました。そしてリングにあがるレスラーのように、イエス様はかつて誰も打ち破ることのできなかっ圧倒的な死の力、人に悲しみと痛みをもたらす死の力を現実を前にして、それを見据えて激しく怒り、興奮して、呻いておられるのです。


 イエス様はマリアや一緒に来たユダヤ人たちが泣いているのを見て涙を流されました。イエス様はわたしたちの心の深い悲しみを経験し、よく分かってくださっています。全てのことを同じように経験し分かって下さるイエス様が一緒にいてくださるからこそ、愛する者と別れがたく、涙を流し嘆くことがあっても、決して絶望する必要はありません。イエス様が死の力に勝利して、愛する者を復活させ、命を与え、救いを完成してくださるからです。死はもはや本当に「眠り」に過ぎず、最後の敵ではないからです。


 ラザロの復活の結果、イエス様を殺そうとしていた人々の殺意は決定的になり、十字架の死への道が始まります。イエス様は、ラザロを復活させることで、ご自分の身に何が最終的にもたらされるのかをご存知でした。しかし、それを知った上で、自ら墓の中のラザロに向かって、命がけで激しく「大声で叫ばれた」のです。ラザロを愛し、私たちを愛するイエス様の壮絶な思いが伝わってきます。ラザロを愛し、そして私たち一人一人を愛して、ご自分の復活の命を与えるために、イエス様はご自分が犠牲となって捕えられ、苦しみを受け、十字架で死なれていく歩みが始まったのです。


 イエス様がご自分から苦しみを受け、十字架で死なれたのは、私たちの罪を赦し、ご自分の命を与えるためであり、その命によって私たちが生かされていくためです。私たちはイエス様に背負われ、結ばれて、父なる神との交わりを与えられています。キリストがご自分の中に私たちを包みこみ、父なる神との交わりに与からせ、私たちと共にいて下さいます。この神との交わりが命です。この命を与えてくださるイエス様が共にいるならば、たとえ死んでも生きるのです。終わりの時、体の復活を実現してくださいます。ニカイア信条にはどのようにキリストの命を与えられ、その命に養われていくのか、その道筋が示されています。


 受難節、私たちを愛し、私たちのために十字架の死の道を選んでくださったイエス・キリスト、復活であり命であるキリストを信じて、豊かな命を与えられて、愛をもって歩んでいきたいと思います。

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