東京主僕教会の最近一か月の説教など

礼拝に来ることができなかった方、教会に関心のある方のために牧師が作成しています。どうぞ、礼拝にも来てみてください。

2017年4月23日礼拝説教

「わたしの主、わたしの神よ」ヨハネ20・19-31  

 

 先日、上野の東京都美術館で行われていたボイマンス美術館所蔵のブリューゲルバベルの塔」展に行ってきました。創世記11章のバベルの塔の物語は、言語が一つであった人間が天と地を結び付け、天まで届くような塔を建てようとしましたが、

 

 その神のようになろうとする高慢のゆえに塔を壊され、言葉もばらばらにされ、地に散らされていくという不思議な話です。芸大のシュミレーション画像を見ると、バベルの崩れた塔がもし現代の日本に出現したら、それは東京タワーよりも高く、スカイツリーよりは低い、高さ510メートルの建物だという驚く説明もありました。ブリューゲルは16世紀、今のオランダなどのネーデルラントの画家ですが、家庭用のこたつテーブルよりも小さなキャンパスにバベルの塔を描き、その周囲に当時の山、農園、家、海、港や船なども細かく描き配置しています。さらに驚くことに米粒よりも小さい3ミリ程度の人々を1400人も描いています。粉をかぶった白っぽい姿でしっくいやレンガを運ぶ人、クレーンを動かす人、家畜の世話をする人、洗濯物を干す人。長い行列。教会のような場所に入っていく人々。たくさんの人々が描かれています。なぜここまで細かく描いているのでしょうか。

 

 それはただ神の怒りを描くのではなく、その崩壊した世界の現実のなかで夢を実現しようとして協力する。崩壊した世界の現実の中で、なお実現できる調和、平和があることを描きたかったからだ、という説明がありました。ブリューゲルの時代、アフリカ・アメリカへの航路が開拓され、貿易が栄え、独立戦争が起きる。彼は新教徒であったようですが、宗教改革が起こり、プロテスタントへの厳しい迫害が起きてきて、それを身近に経験したようです。

 

 ブリューゲルは混乱した時代のなかで不安に包まれながら平和を求めていたように思えるのです。それは今もこの世界と私たちの願いでもあります。復活されたイエス様は「あなたがたに平和があるように」と言われています。混乱した世界に生きる私たち一人一人が、平和の中で、平安に包まれて歩むことができるようにして下さっています。

 

 けれども、復活されたイエス様が与えてくださる平和は、どのような平和なのでしょうか。「あなたがたに平和があるように」という言葉は、最初に「週の初めの日の夕方」、鍵をかけ部屋の中に閉じこもる弟子達に告げられました。これまで従ってきたイエス様が捕まって、怖くなり、逃げてしまう。そのイエス様は十字架で死なれ、三日目に復活された「その日」です。墓に行ったマリア達が、イエス様が復活したと言って、部屋に駆け込んできた「その日の夕方」です。しかし、弟子達はイエス様が復活したと聞いても信じることができませんでした。自分たちも捕まって同じように殺されてしまうのではないかという恐怖の中にあったからです。けれども、それならば、イエス様が与えて下さる「平和」とは体の命を脅かされない平和のことなのでしょうか。戦争や対立のない、和解が実現している平和のことを指しているのでしょうか。「あなたがたに平和があるように」。この平和は確かにそのことを生み出していく平和です。けれども、それ以上に深い大事な意味が読まれてきました。

 

 復活されたイエス様が鍵をかけ部屋に閉じこもっていた弟子たちに不思議な仕方で現れて喜びに包まれた時、そこにいない弟子がいます。「ディディモ」と呼ばれるトマスです。トマスは、かつてイエス様が「父の元に行ってあなたがたのために場所を準備する」と言った時、「主よ、どこへ行かれるのか、わかりません」と、その道を追求し、イエス様を慕って、勇敢に従った人でした。けれども、イエス様に敵意を持つ人々がいるベタニアでラザロが病気で死んでしまい、イエス様がそこに向かおうとした時、「一緒に行って死のうではないか」と言いました。トマスは勇敢でありながら、その言葉にみられるように、トマスは他の弟子の誰よりもイエス様が死なれることを予感していた人でした。そうであるならば、他の弟子の誰よりも、この時、イエス様の死を真剣に受け止め、受け入れて、自分も死に直面していく準備をしていたのだと考えることができるのです。そのトマスは他の弟子たちがイエス様が復活されたと言っても信じることができませんでした。

 

 けれども、注目したいのは、この時、トマスが単に復活したイエス様を見ることを求めたのではないということです。イエス様が十字架で苦しまれ死んだことの確かな証拠、その手と脇腹に残る傷跡に触ることを求めたことです。ほかの弟子たちはイエス様の傷跡の残る手と脇腹を見て喜び、トマスもその傷跡に触ることを求めたのです。イエス様の傷、その深さを見つめていくこと、それが今日の聖書の箇所のポイントなのです。

 

 復活されたイエス様がトマスに現れた時、イエス様はご自分からトマスに傷跡を差し出されました。私たちは決してこの目で復活されたイエス様を見たり、この手で触ったりすることはできません。しかし、そのような次元を超えて、復活されたイエス様は確かに私たちのもとに来て下さり、共にいて下さっています。イエス様の手と脇腹に残る傷跡は、トマスにとって、それはまさに自分がイエス様を見捨て、イエス様を十字架につけたことの印であり、自分のためにイエス様が苦しみ、死なれたことの印であり、自分が受けるはずであった苦しみと死の印でした。

 

 トマスがどこまでもこだわったのは、いくら復活したと聞いても、傷跡がなければ、自分とは無関係、何も関係ないからです。何も自分の人生にもこの世界にも何も起こらない、そのままなのです。けれども、傷跡があり、その傷跡が自分がつけた傷跡であり、自分を苦しめ、気になって仕方がない傷跡であり、この世界がつけた傷跡であり、この世界を苦しめている傷跡であるならば、大きな影響を与えていくのです。イエス様は自分に傷をつけたその全てを赦し、受け入れ、共にいて下さっています。それが神共にいます平和です。トマスはすべてを赦してくださっている愛の中にあることを知った時、神共にいます平和、神の愛の平安に包まれ、頑なな心の扉が開かれ、「わたしの主、わたしの神よ」と告白するに至りました。トマスと弟子たちに起こったことは私たちに決して無関係ではありません。

 

 私たちにとって、イエス様の傷跡は、私たちの傷、私たちの罪、私たちの全てを引き受け、苦しまれ、死なれたことの印であり、その私たちの罪を赦し、受け入れて、神共にいます命を与えられていることの印です。そして、イエス様の御傷は、私たちを疑う者から信じる者へ、私たちとこの世界が神との関係を癒され、回復し、新しく造り変えられていく、平和を創り出す神の確かな働きの中にある印です。私たちを苦しめる力、罪の力、悪の力がどんなに強くても、その罪と悪が打ち破られています。死の力がどんなに厳しくても、その力は打ち破られています。どこまでも、私たちに最終的に真理として現れるのは死ではなく、私たちを捕らえて離さない神の愛の勝利であり、神の命の勝利であり、その命に私たちは連なっています。

 

 今日の準備で特に考えさせられたのは、トマスが「わたしの主、わたしの神よ」と告白するに至った理由です。イエス様の御傷は私たちの痛み、私たちの傷、私たちの苦しみ、私たちの罪、私たちの死、私たちの命です。その私たちの全てが復活のキリストの中に包まれています。「キリストと共に死に、キリストと共に生きる」。イエス様の傷跡によって、パウロが語ったキリストに示される神秘といしか言えない恵みに私たちも遭遇します。私たちの人生の物語がキリストの人生の物語の一部となり、キリストの人生の物語の土台となる。キリストの人生の物語が私たちの人生の物語の一部となり、私たちの人生の物語の土台となる。私たちの過去、私たちの現在、私たちの未来、その全てが復活されたキリストの中に包まれ、連なっています。

 

 神でありながら、人となり、私たちの傷、私たちの痛み、私たちの罪と死を引き受け、死なれ、死の力に勝利しているご自分の神としての命を私たちのものとして分かち与えて下さいます。キリストの中で私たちの死と命が一つに結ばれ、神と人、神と私たちが一つに結ばれ、天と地が一つに結ばれています。神と人、天と地が一つに結ばれている。この、神秘としか言えない驚かざるを得ない神の恵みに、復活したキリストによって遭遇しています。だからこそ、ここに神がいます、「わたしの主、わたしの神よ」と告白することができるのです。

 

 イエス様の傷跡、御傷は私たちとこの世界の希望の光です。イエス様は私たちの傷を引き受け、経験し、死なれ、復活されました。だからこそ、イエス様が担ってくださっている、今自分を苦しめる傷、自分自身にさえ希望を持つことができるのです。私たちと同じ苦しみ、試練を経験されたからこそ、キリストはその試練、苦しみの中にある私たちを慰め、励まし、導くことができるのです。復活されたイエス様の傷跡に注目していく。この傷跡が私たちのための傷跡であり、この世界のための傷跡であることを信じていく時、神共にいます平和の中に包まれ、恐れを乗り越え、希望をもって歩んでいく始まりとなるのです。

 

 アッシジのフランチェスコの有名な祈りの言葉があります。「主よ、わたしを平和の器としてください。憎しみがあるところに愛を、争いがあるところに赦しを、分裂があるところに一致を、疑いのあるところに信仰を、誤りがあるところに真理を、絶望があるところに希望を、闇のあるところに光を、悲しみあるところに喜びを。ああ、主よ、慰められるよりも慰める者としてください。理解されるよりも理解する者に、愛されるよりも愛する者に」。この言葉は、憎しみや争い、分裂や疑い、誤り、絶望、闇、悲しみ、罪と死の力に閉ざされ、支配されたこの世界に、復活されたイエス様が来てくださり、平和を与えて下さっていることを信じることから生まれている祈りです。バベルの崩壊した塔がある世界の現実があります。けれども、復活の主が来てくださり、私たちに愛を与え、赦しを与えて下さっています。和解と信頼、真理と希望、光と喜びを与えて下さっています。神さまが私たちと世界に始め完成してくださる御業に仕えていく祈りなのです。私たちに平和を与え、疑う者から信じる者へと変えていく、愛をもって仕える者としていく。それはこの世界に全ての和解が実現した平和を作り出す(ピース・メイキング)神さまの御業なのです。キリストによって実現した新しい御業が聖霊によって私たちに起こっています。私たちが疑う者から信じる者に変えられていく。キリストを通して神を礼拝し、愛をもって生きる者に変えられていく。そのことが起こっているのなら、私たち自身が神さまがキリストを復活させ、この世界に働いてくださっていることの印なのです。

 

 復活節はこの復活の主を信じる信仰が養われる時です。混乱した世界の現実の中で私たちに平和を与え、希望を与えるもの。平和が完成されていく希望を与えるもの。それは私たちのため、この世界のための傷跡を負って私たちと共にいてくださる復活されたキリストです。復活節、この主の御傷を見つめながら、主の平和を与えられ、恐れを乗り越え、希望をもって歩んでいくことができるように祈ります。

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