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東京主僕教会の最近一か月の説教など

礼拝に来ることができなかった方、教会に関心のある方のために牧師が作成しています。どうぞ、礼拝にも来てみてください。

2017年4月23日礼拝説教要約

「わたしの主、わたしの神よ」ヨハネ20・19-31

  上野の東京都美術館で行われていたブリューゲルバベルの塔」展では、家庭用のこたつテーブルよりも小さなキャンパスにバベルの塔を描き、その周囲に当時の山、農園、家、海、港や船なども細かく描き配置しています。さらに米粒よりも小さい3ミリ

 

程度の人々を1400人も描いています。それは、ただ神の怒りを描くのではなく、崩壊した世界の現実の中で、なお実現できる調和、平和があることを描きたかったからだ、というのです。混乱した時代のなかで平和を求めていたように思えるのです。それは今もこの世界と私たちの願いでもあります。

 

 けれども、復活されたイエス様が与えてくださる平和は、どのような平和なのでしょうか。注目したいのは、トマスが単に復活したイエス様を見ることを求めたのではないということです。イエス様が十字架で苦しまれ死んだことの確かな証拠、その手と脇腹に残る傷跡に触ることを求めたということです。

 

 トマスがどこまでもこだわったのは、いくら復活したと聞いても、傷跡がなければ、自分とは無関係、何も関係ないからです。何も自分の人生にもこの世界にも何も起こらない、そのままなのです。けれども、傷跡があり、その傷跡が自分が見捨ててつけた傷跡であり、自分を苦しめ、気になって仕方がない傷跡であり、この世界がつけた傷跡であり、この世界を苦しめている傷跡であるならば、大きな影響を与えていくのです。

イエス様は自分に傷をつけたその全てを赦し、受け入れ、共にいて下さっています。それが神共にいます平和です。トマスはすべてを赦してくださっている愛の中にあることを知った時、神共にいます平和、神の愛の平安に包まれ、頑なな心の扉が開かれ、「わたしの主、わたしの神よ」と告白するに至りました。

 

 イエス様の御傷は私たちの痛み、私たちの傷、私たちの苦しみ、私たちの罪、私たちの死、私たちの命です。「キリストと共に死に、キリストと共に生きる」。私たちの人生の物語がキリストの人生の物語の一部となり、キリストの人生の物語の土台となる。キリストの人生の物語が私たちの人生の物語の一部となり、私たちの人生の物語の土台となる。私たちの過去、私たちの現在、私たちの未来、その全てが復活されたキリストの中に包まれ、連なっています。

神でありながら、人となり、私たちの傷、私たちの痛み、私たちの罪と死を引き受け、死なれ、死の力に勝利しているご自分の神としての命を私たちのものとして分かち与えて下さいます。キリストの中で私たちの死と命が一つに結ばれ、神と人、神と私たちが一つに結ばれ、天と地が一つに結ばれています。神と人、天と地が一つに結ばれている。この、神秘としか言えない驚きに満ちた神の恵みに復活したキリストによって遭遇しています。だからこそ、ここに神がいます、「わたしの主、わたしの神よ」と告白することができるのです。

 

 イエス様の傷跡は崩壊した塔のあるような現実の中にある私たちとこの世界の希望の光です。イエス様の傷跡が私たちのための傷跡、この世界のための傷跡であることを信じる時、神共にいます平和の中に包まれ、恐れを乗り越え、希望をもって歩んでいく人生が始まるのです。私たちはこの平和、全ての和解を完成していく神さまの御業に仕えていく器とされているのです。

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