東京主僕教会の最近一か月の説教など

礼拝に来ることができなかった方、教会に関心のある方のために牧師が作成しています。どうぞ、礼拝にも来てみてください。

2017年4月30日礼拝説教

「復活の主の愛に生かされて」ヨハネ21・1-19    

 

 今朝のヨハネによる福音書は直前の箇所を見ると、それで終わってもよいかのように思えます。「20:31 しかし、これらのことを書いたのは、あなたがたがイエスは神の子キリストであると信じるためであり、また、そう信じて、イエスの名によって命を得るためである」。ここで終わっても不思議ではないのです。しかし、そうではなく、その後に21章が続いていくのは、その後、復活の主によって弟子たちがどのように日常の歩みの中で命を得て歩んでいったのか、どのように人生が変えられたのか、その大切な物語があるからです。それは、また、いかに私たちが復活の主に出会い、人生を変えられていくのか、豊かな命を生きる人生に変えられていくのか、私たちの人生の物語でもあるからです。

 

 今日の21章の始まりで、弟子たちはかつてイエス様に出会う前に生活をしていたティベリアス湖畔、ガリラヤの湖に戻って漁をしています。なぜ、復活されたイエス様に出会った弟子達が何事もなかったかのように漁をしているのでしょうか。イエス様が復活された朝、墓に来た女性達にイエス様は告げました。「兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこで私に会うことになる」。確かにその言葉に従ってガリラヤへ来たのです。けれども、そこにイエス様の姿はありませんでした。弟子たちは意気消沈し、これからどう生きていったらよいのかと悩み、とりあえず、かつてそれで長年生計をたててきた漁師としての自分の経験を活かし、一度は捨てたはずの網を手にして、出て行って、船に乗り込んで、漁を始めたのです。このベテランの漁師達が漁を始めたからには、必ず魚を捕れる、という見込みがあったに違いありません。けれども、「その夜は何もとれなかった」のです。漁師としての長年の経験、知恵を総動員、駆使して、見込みを持ち、全力で漁をしたのです。けれども、何も取れませんでした。

 

 弟子たちがこの時、深い消耗感、無力感、失敗感、絶望感に包まれたとしても不思議ではありません。自分はダメな人間だ、役に立たない価値のない人間だと思えても不思議ではありません。思うにならない現実を前に怒りを覚え、ストレスで一杯になっても不思議ではありません。これまでイエス様が人生の道しるべ、コンパスのような存在だった弟子たちにとって、その愛するイエス様を失い、将来の見通しがつかなくなる混乱のなかでどう生きたらよいのか分からないと悩み、闇の海の上をあてもなく漂っているように感じても不思議ではありません。この弟子たちの経験は私たちの経験でもあります。けれども、弟子たちに朝が訪れたように、私たちに明けない夜はありません。私たちにも朝の光が差し込んでいるのです。

 

 弟子たちの夜明けは、復活されたイエス様が共におられ、ご自分を示されることから始まりました。しかし、弟子たちにはそれがイエス様だとは分かりません。しかし、復活されたイエス様の呼びかけを聞くことから、弟子たちはイエス様がそこにおられると気づく物語が始まるのです。復活されて岸に立っているイエス様は弟子たちが夜通し漁をしても取れなかったこと、そのことで失敗感や無力感、絶望感に包まれていること、その全てを知っておられました。その全てを知りながら、「子たちよ、何か食べる物があるのか」と言われます。弟子たちは何も取れず無力さと絶望感の中に沈み込み、「ありません」と答える以外にありません。けれども、イエス様はそこから弟子たちを引き出すために、「船の右側に網を打ちなさない。そうすればとれるはずだ」と指示を与えられました。そのようにすると、網を引き上げることのできない程の魚がかかり、「イエスの愛しておられた」弟子のヨハネは、「主だ」と分かり、弟子たちはイエス様であることを知り、イエス様のもとに行って従っていくのです。イエス様が主である、ということは、イエス様が自分を捕らえ、支え、全てを支配し、導いて下さっている、ということです。

 

 この出来事は今ここで復活されたイエス様がどのように私たちに関わってくださっているのかを示しています。今ここで働いている神の御業があり、神の働きがある。それが私たちの福音なのです。聖霊の導きによって、聖書のみ言葉を通して、復活されたイエス様に出会い、復活されたイエス様が今ここで私たちと共におられ、私たちのために働いてくださっている、それが福音なのです。復活されたイエス様は私たちの全てを知って共にいて下さっていることを知らせて下さっています。私たちが自分をどんな自分に思えたとしても、その私たちを神の愛する子供として、声をかけ、私たちを価値ある者として受け入れ、愛して下さっています。私たちを捕らえ、支えて下さり、豊かな恵みを与え、導いて下さっています。弟子たちのようにイエス様のみ言葉に従って、イエス様を信じ、その傍らに身を置いていく時、そこにおいてこそ、不安の中で、混乱した現実の中で、疑いの中で、どのような状況であっても、何もないと思っていた自分に豊かな恵みが与えられている、価値のある自分、希望のある自分であることを知り、力を与えられるのです。私たちは礼拝でこのキリストに出会い、恵みを受けて、聖餐を通して、主の命によって養われていくことができます。世々の信仰者はこの物語に自分が連なっていることを知り、同じように復活されたキリストが共にいてくださり、生きて働いて下さっていることを知り、慰めと希望を与えられてきたのです。

 

 全ての人生の物語、私たちの人生の物語は共にいて下さるキリストに出会い、完成されていくのです。先日、歌謡曲ですが、日本の名曲と呼ばれる少し昔の曲を今のアーティストが歌う番組で「東京砂漠」の曲を聞き、とても興味深く思いました。「空が哭いてる。煤け汚されて。人はやさしさをどこに捨てたの、ああ東京砂漠」。その後、「だけど、あなたがいる、肩を寄せ合うあなたがいる。あなたの傍で暮らせるならつらくはない、この東京砂漠。うつむかないで歩いていける、あなたの愛につかまりながら しあわせなのよ この東京砂漠 あなたがいれば、あなたがいれば陽はまた昇る」というような歌詞です。もちろん男女の恋を歌ったものですが、これをカバーした斉藤和義さんは小さい時に聞いて心惹かれてこの曲を選んだということで、この歌詞には多くの人に共通する思いがありますが、寂しさもつきまとう曲です。けれども、「あなた」という言葉を、共にいてくださるイエス様を置き換えて読んでみると、確かな人生を表す歌詞になります。砂漠のような現実の中に来てくださったイエス様を信じていく時、うつむかないで歩いていける。復活の主が私たちと共にいて捕らえ、支えて下さっている。この主がいてくださる。だから、私たちにも日は昇っている。それが今私たちに起こっていることなのです。

 

 その私たちの人生を生かしていくために共にいて下さるイエス様が与えてくださっている大きな恵み、贈り物、それが15節からのみ言葉です。イエス様はペトロに「ヨハネの子シモン、あなたは私を愛しているか」と問われます。「わたしを愛しているか」。この問いが三度繰り返され、ペトロは悲しくなったとあります。かつて、「あなたのためなら命を捨てます」、たとえ死んでもイエス様に従っていくと命がけで主への愛を誓ったペトロです。しかし、三度イエス様を否定し、その愛を貫くことができませんでした。愛したくても愛せない。愛に生き抜くことができない。それがペトロを苦しめています。しかし、自分では捕らえがたく病んでいる姿をイエス様は知っておられ、かつての自分の呼び名「ヨハネの子シモンよ」と呼ばれ、「あなたは私を愛しているか」と問われました。

 

 ペトロはこの問いを繰り返される度、耐えがたい心の痛みが生まれ、目を背けたくなる自分の現実に向き合わせられます。けれども、それはペトロを憎み、怒り、滅ぼすためではありません。ペトロを赦し、愛に生きることができるように癒すためでした。イエス様の一回目と二回目の「愛しているか」という言葉は「アガパオー」、アガペーという神さまの無条件の愛を示す言葉です。けれども、その問いに対してペトロが答えた「愛している」という全ての言葉は、フィレオーという友情を示す言葉です。ペトロは自分に自信をもって答えることができません。でも、イエス様に従いたい、愛したいという気持ちがあります。それがフィレオーという言葉を使いながら、精一杯、「主よ、私があなたを愛していることはあなたがご存知です」といった言葉に現れています。そのペトロに最後にイエス様が「愛するか」と使った言葉はアガパオーではなく、フィレオーという言葉でした。アガパオーではなく、フェイレオーを使って、ペトロの心に寄り添い、労っていく、その優しい愛をもって完全に赦しておられることが示されています。この愛、赦しがなければ、ペトロは疑いを抱え、自信がないままに過ごしていかなくてはなりません。この主の愛、主の赦しがペトロを赦し、ペトロの愛を回復し、ペトロを用いて、愛する者へと完成させていくのです。だからこそ、人々に愛をもって自分なりに仕えることができます。私たちも今朝、この主の徹底的な無条件の赦し、この愛を与えられています。

 

 先日上野の美術館で見た「バベルの塔」展で見た、もう一つ印象的な絵はヒエロ二ムス・ボスという人の「クリスト・フォロス」、キリストを背負った人という絵です。どのように生きたらよいのかを問うと、流れの急な川を示され、そこで川を渡る人々を助けるようにと提案され、無償でそのことを始めます。その時、小さな男の子を背負うのですが、だんだん重たくなってきて、やっとの思いで渡りきると、その男の子に、「どうしてそんなに重いのか」と聞くと、「私はキリストであり、全世界の罪を負っているから重いのだ」と答え、その人を祝福したという物語です。

 

 この絵、物語が昔から伝わってきたのを考えると、信仰者の生き方を示すものが読み取られ大事にされてきたのだと思えます。この小さな者にしてくれたことは私にしてくれたことなのだ、と人に仕える時、キリストに仕えているのだ、ということも大事なことです。けれども、それ以上に、自分の罪の重さを受け止めていく。それだけではなく罪を赦すキリストの赦し、その愛の重さを受け止めていく。そのことがあって、支えられ、生かされて、仕えていくことができる。生きていくことができる。私たちとこの世界の罪を贖い、赦してくださるキリストの愛が人生を支え、希望を与えていきます。愛をもって人々に仕え、愛を人々に伝えていく歩みを完成していきます。この主の愛が、私たちを愛する者に変え、私たちの愛、私たちの奉仕、私たちの命、人生を完成してくださいます。

 

 ボスの絵には吊るされたクマ、廃墟、人を襲おうとしている怪物など不思議なものがでてきます。十字架の戦いが終わった後の廃墟。イエス・キリストの復活によって罪と死の力は打ち破られて、それを象徴するようにクマが吊るされています。けれども、終わりの完成の時まではなお罪と悪の力が猛威を振るい、獣が人を苦しめています。しかし、その混乱した現実の中で確かな希望があります。十字架につけられ、復活されたキリストが共におられ、私たちを捕らえ、支えて、導いて下さっているということです。私たちを愛し、赦し、用いてくださるということです。この愛を受けていく時、私たちは神と人とに仕えていくことができるのです。どんなに自分が価値のないものに思えても、どんなに頼りない者に思えても、キリストを通して示されている神の愛が私たちを捕らえ、支え、私たちの愛、私たちの歩みを完成してくださいます。その確かな道、命の道が開かれ、希望が示されているのです。今朝、このキリストに出会っています。この主を信じ、主が招いてくださっている主と共なる命の道を歩んでいきたいと思います。

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