東京主僕教会の最近一か月の説教など

礼拝に来ることができなかった方、教会に関心のある方のために牧師が作成しています。どうぞ、礼拝にも来てみてください。

2017年4月30日主日礼拝説教要約

「復活の主の愛に生かされて」ヨハネ21・1-19

 

 

 弟子たちはガリラヤへ行っても、復活された主に会えず、意気消沈し、とりあえず、かつてそれで長年生計をたててきた漁師としての自分の経験を活かし、一度は捨てたはずの網を手にして、出て行って、船に乗り込んで、漁を始めたのです。けれども、漁師としての長年の経験、知恵を総動員、駆使して、見込みを持ち、全力で漁をして何も取れなかったのです。

 

 深い消耗感、無力感、失敗感、絶望感に包まれる。自分はダメな人間だ、役に立たない価値のない人間だと思える。思うにならない現実を前に怒りを覚える。愛する者を失い、将来の見通しがつかなくなる混乱のなかでどう生きたらよいのか分からないと悩み、闇の海の上をあてもなく漂っているように感じる。それは私たちの人生にも起こります。けれども、私たちにも朝の光が差し込んでいます。

 復活された主が共におられるからです。しかし、その弟子たちがそれがイエス様だとは分かったのは、イエス様の呼びかけに従い、み言葉を信じ、引き上げることのできない程の魚がかかった時でした。「主だ」という言葉にはイエス様が自分を捕らえ、支え、全てを支配し、導いて下さっているということです。

 この出来事は、今ここで私たちに働いている復活の主の御業があり、神の働きがあることを示しています。それが私たちの福音なのです。イエス様は私たちの全てを知って共にいて下さり、ご自分を知らせて下さっています。どんな自分に思えたとしても、その私たちを神の愛する子供として、声をかけ、私たちを価値ある者として受け入れ、愛して下さっています。私たちを捕らえ、支えて下さり、豊かな恵みを与え、導いて下さっています。弟子たちのようにイエス様のみ言葉に従って、その傍らに身を置いていく時、そこにおいてこそ、不安の中で、混乱した現実の中で、疑いの中で、どのような状況であっても、何もないと思っていた自分に豊かな恵みが与えられている、価値のある自分、希望のある自分であることを知り、力を与えられるのです。私たちは礼拝でこのキリストに出会い、恵みを受けて、聖餐を通して、主の命によって養われていくことができます。

 この主がおられるからこそ、この主の愛につかまっているからこそ、私たちはうつむくことなく歩んでいけるのです(「東京砂漠」)。私たちの人生の物語はこの復活の主の出会いの物語に連なって完成されていきます。この主が人生を完成してくださいます。復活された主が共にいてくださり、生きて働いて下さっていることを知る時、慰めと希望を与えられるのです。

 その私たちの人生を支え、生かし、完成していくのは、ペトロに示された神さまの無条件の赦しであり、神さまの愛です。愛したくても愛することができない者を癒し、愛する者として変えていきます。復活された主はペトロに寄り添い、労り、愛し、赦しておられます。この主の愛、主の赦しがペトロを赦し、ペトロの愛を回復し、ペトロを用いて、愛する者へと完成させていくのです。だからこそ、人々に愛をもって仕えることができます。私たちもこの主の徹底的な無条件の赦し、この愛を与えられています。

 「バベルの塔」展のヒエロ二ムス・ボスという人の「クリスト・フォロス」、キリストを背負った人という絵には、激しい川の流れの中で、自らの罪を自覚し、その罪を赦す神の愛の重さを受け止めていくことが私たちの人生を支え、生かしていくことが示されています。

 どんなに自分が価値のないものに思えても、どんなに頼りない者に思えても、キリストを通して示されている神の愛が私たちを捕らえ、支え、私たちの愛、私たちの歩みを完成してくださいます。その確かな命の道が開かれているのです。

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