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東京主僕教会の最近一か月の説教など

礼拝に来ることができなかった方、教会に関心のある方のために牧師が作成しています。どうぞ、礼拝にも来てみてください。

2017年5月7日礼拝説教

「良い羊飼い」ヨハネ10・1-10   

 

 今朝の礼拝では教会の暦に従って、復活節のこの日曜日に読まれる聖書の箇所を読みました。この日の礼拝では復活されたイエス様が羊飼いのように私たちと共にいてくださり導いてくださることが覚えられています。

  先ほどこの羊飼いを歌う讃美歌の354番の「かいぬしわが主よ」と21の120番の「主はわがかいぬし」を歌いました。この二つの讃美歌は世界的にも親しまれ、好きな方も多いと思いますが、354番の讃美歌は19世紀半ばにイギリスで生まれました。21の120番の讃美歌の歌詞はもっと古く17世紀半ばに生まれています。カルヴァンによるジュネーブ詩編歌の影響を受けて、イギリスのスコットランドでも詩編歌が作られましたが、詩編23編を曲にしたこの讃美歌は多くの人々に親しまれてきました。このメロディーを作ったジェシー・アーヴィングという女性はスコットランドのクリモンドという小さな町の教会の牧師の娘の名前です。この讃美歌の解説にこのようなことが書かれていました。このクリモンドという町はその教会の塔にあった時計で有名な町だったようです。その時計を作った職人は誤って「何分」を示す印を一つ余計に作ってしまったのです。その時計に従えば1時間は61分あるのです。その地では1日は地上の他のどの場所よりも24分長いことになるのです。その僅かな時間は「主はわがかいぬし」を歌うための時間として与えられたのだ、という話です。このような話が伝えられている程、この讃美歌を歌う人々は、主が私たちの良き羊飼いとしていつも共にいてくださり、導いてくださることを思い起こし、信じて、人生のどんな時も、悩みや苦しみの時にあっても、道を見失ったような時にも道を見出し、支えられ、導かれてきたのです。

 

 このヨハネによる福音書の10章は9章から始まる物語の締め括りです。イエス様によって目の見えなかった人が目を癒されて、イエス様のことを神のもとから来た救い主だと言ったのを、ファリサイ派の人々は受け入れられませんでした。その人は罪人だから神さまに受け入れられているはずはないと思っていたからです。だから外に追い出してしまったのです。ファリサイ派の人々は、その人は神に受け入れられ赦されている存在ではない、神からも人からも受け入れられていない存在であり、価値のない者として考えていたことが分かるのです。その人々にイエス様がご自分のことを示して、語りかけているのが今日のみ言葉です。ファリサイ派の人々は、羊の囲いを強引に乗り超えて入ってきて羊を奪い取っていく盗人のように、人を罪人と決めつけて自分たちに従わせようとしました。しかし、イエス様は、ご自分は自然に羊の囲いに入る羊飼いであり、羊は自ずと羊飼いに従っていくのだと語るのです。それが目の見えない人に起こった癒しだったのです。

 

 私たちは今あまり生きている羊や羊飼いを目にすることはありません。しかし、この羊飼いが羊の名前を呼べば、羊はその羊飼いの声に従ってくるということはとても印象深い言葉です。昔、イギリスの聖書学者がパレスティナに行って、羊飼いの生活の実地調査をしました。羊飼いは何十頭もいる羊の一頭一頭に名前を付けており、その名前を間違わずに呼ぶことができたというのです。どうしてこのような関係が生まれているのでしょうか。

 

 今日のみ言葉の説明で取り上げられることがあるのは『星の王子様』の話です。ある星に来た王子はきつねに出会いました。王子はそのきつねと友達になりたいとお願いをしました。すると、きつねは、「それでは自分を飼い馴らして」というのです。「どうすればいいの?」というと、「辛抱強さが必要だけど、きみはまず、ちょっと草の上の遠いところに座る。僕はきみを横目でちらっと見るけれど、きみは何か話してはだめだ。言葉は誤解のもとだ。でも毎日少しずつ、近づいて座っていいからね」。王子様がそうしていくと、だんだん親しくなり、離れれば寂しくなってしまう友達になり、互いにこの世でたった一つしかない存在であり、かけがえのない存在となったのです。

 

 この羊飼いも羊に声をかけ、羊が羊飼いの声を聞き、それに信頼して従っていく。それには長い時間、辛抱強く世話をして配慮し接していったからに違いありません。イエス様と目を癒された人の関係も同じであり、私たちとイエスさまの関係も同じなのです。イエス様が私たちを愛し、私たちのもとに来て、私たちに辛抱強く配慮し、仕えて下さっている。そのことを私たちはイエス様の十字架の死に示されています。私たちがまだイエス様を知らない時から、イエス様は私たちを愛し、私たちの全てを引き受け、私たちの負うべき罪の裁きを背負って、十字架で死なれ、復活してくださいました。イエス様は目で見ることはできません。けれども、今こうして、聖霊の働きを通して、聖書へと導き、イエス様が私たちの羊飼いとして共にいて下さっていることを教えて下さっています。

 

 名を呼ぶということは聖書では意味があります。名はその人の本質を示しています。イエス様は羊飼いとして、羊である私たち一人一人の全てをご存知であり、私たちの名前を呼び、私たちのために尽くし、養ってくださっています。このイエス様が私たちの本当に親しい友となり、詩編23編があなたと呼べる程に親しい関係となってくださって、私たちが自分を託すほどの信頼できるお方として共にいて導いてくださいます。この羊飼いと羊の関係のように本当に私たちを愛し、私たちを信頼し、私たちを価値のある者、かけがえのないものとして愛し、心にかけ、尽くしてくださり、私たちが迷子になっても背負って助け出し、導いて下さるお方がいます。神によって親しく知られていること。名前で呼ばれていること。配慮され、心を尽くされていること。そして、親しいものとして信頼できること。この愛による信頼の関係こそが私たちの心を満たすのです。私たちにはこのイエス様の愛による親しい関係が必要なのです。「あなたは私たちをご自分にむけてお造りになりました。ですから、わたしたちの心はあなたのうちに憩うまで、安らぎを得ることができないのです」。アウグスティヌスの有名な言葉です。私たちがイエス様のみ言葉に従っていく時、ますますイエスを信頼して歩んでいくことができるのです。

 

 今日の7節からの聖書のみ言葉を読む時に改めて希望を与えられるのは、イエス様は私たちを盗人のように盗んだり、屠ったり、滅ぼすことを目的としていないということです。それがはっきりと語られています。私たちを破壊し、滅ぼすのではなく、私たちが神の命を受けること、永遠の命に生かされ、養われていくことです。イエス様のように生きる者となる。27節と28節に明確に書かれています。滅ぼすのではなく、生かすこと。神さまの愛を受け、神さまを愛し、人を愛して生きること。このキリストに似たものに変えられていくこと。豊かな命を受け、この命の完成、神の豊かさの全てにあずかるまで、イエス様は私たちをあきらめず背負い、導いてくださいます。11章のラザロの物語はこの命を与えられ、完成することを示しています。イエス様はご自分が門自身であると言われました。イエス様によって私たちは良い牧草地を見つけ、豊かな命に生きることができるのです。イエス様はいつも門として私たちと共にあり、いつも私たちを導いてくださいます。

 

 この聖書の箇所で、イエス様は何かができなければ、自分たちに認められなければ価値がないと思っていたファリサイ派の人々に語られている箇所です。私たちは様々なコマーシャルに囲まれて生きています。しかし、気をつけなければ、いつのまにか、豊かな人生とは何か、何が重要なことなのかが分からなくなってしまいます。健康になること、もっと良いものをもつこと、いい成績をとること、人から認められ、承認されること、競争に勝つこと、物を過度に求めていくことによって、神の視点からみた自分の価値、神さまに愛され受け入れられ必要とされているかけがえのない存在であることを忘れてしまうのです。だから、私たちの名を呼び、語りかけるイエス様のみ言葉に何度も聞いていく必要があるのです。かけがえのない価値のある自分であることを確認していく必要があるのです。イエス様は聖霊によって聖書のみ言葉によって私たちと出会い、愛する私たちに命を与え、神の豊かさにあずからせてくださいます。神の愛する子どもとされ、豊かな命を与えられている自分を取り戻し、神と人との関係を取り戻し、健やかにされていくことができます。それが私たちが招かれている礼拝なのです。

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