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東京主僕教会の最近一か月の説教など

礼拝に来ることができなかった方、教会に関心のある方のために牧師が作成しています。どうぞ、礼拝にも来てみてください。

2017年5月14日礼拝説教


「わたしたちの道であるキリスト」ヨハネ14・1-14  2017.5.14

 

 今朝読んでいただいた聖書のみ言葉は世界の教会の葬儀でもよく読まれるように、今混乱と不安の中で生きる人々に希望を与えてきた聖書のみ言葉です。「騒がせる」という言葉は池の中に石が落ちると波紋が広がっていく、その水がかきたてられていく動きを指しています。私たちにはどうしようもなく心が動揺し、不安に包まれる時が

 

 あります。自分に起こってくること、世界や社会に起こってくる様々な出来事によって、心に波紋が広がり、不安に包まれることがあります。今日のみ言葉はイエス様がこれから十字架で死なれ、復活されて、神のもとへ戻られることを念頭において語られています。イエス様がいなくなり置き去りにされるように感じたトマスは「主よ、どこへ行かれるのか、私たちには分かりません」と言います。フィリポは「主よ、私たちに御父をお示し下さい。そうすれば満足できます」といいます。この問いは心を騒がさざるを得ない現実の中にいる私たちの問いでもあります。神を示して下さい。神はおられるのか。それはどのような神なのか。


 今年の1月、遠藤周作の「沈黙」の映画が上映されました。神はどこにおられるのか。神は沈黙されていたのか。その深い問いがありました。昨日教会に案内が来ましたが、今年の9月「アメイジング・ジャーニー-神の小屋より」という映画が上映されます。この映画の案内によれば、神は沈黙されていたのか、この問いへの答えとなる映画だと宣伝されています。愛する娘の命を誘拐事件で奪われた父親はその心をえぐられる事件現場で不思議な三人の人物と出会います。それは三位一体の神を表しています。この神に出会い、希望の光を与えられ、自分を取り戻していく物語です。私自身はしばらく前この原作の日本語訳をすでに読んで感動的な印象を与えられましたが、この『神の小屋』という原作は信仰者によって書かれた物語です。アメリカでは出版以来世界中で大変な反響を呼んでいるようです。不幸を神はどうして放っておかれるのか。神の愛とは何か。どのように働いておられるのか。そのことを大胆に描いています。カール・バルトという20世紀戦後の世界に大きな影響を与えた人がいますが、この人は特に三位一体論の復興ともいえる重要な影響を世界に与えていきました。この『神の小屋』という本は三位一体の神の働き、その恵みについて語られる時、触れられる時があるのです。不幸を神はどうして放っておかれるのか。神の愛とは何か。神はどのように働いておられるのか。三位一体の神についての理解はそのことを考える道筋を私たちに与え、信仰に力を与えます。私たちには、不安の中にある時、希望が必要です。闇の中の光が必要なのです。私たちに希望の光を与えるものが今日のイエス様のみ言葉なのです。


 イエス様は不安に包まれている弟子たちに「心を騒がせるな」と言われます。しかし、その不安から解放されるために「神を信じ」ることが必要です。そして「わたしをも信じなさい」、その父なる神を示して下さっているイエス様を信じることが必要です。しかし、ただ信じなさいと言われているのではありません。「わたしの父の家には住む所がたくさんある。なければ、あなたがたのために場所を用意しにいくと言ったはずである。行って、あなたがたのために場所を準備する」。弟子たちはこの後、十字架の時、イエス様を否定し、イエス様を見捨てて、離れていきます。しかし、弟子たちがこの後イエス様を見捨てていくことが分かっていても、イエス様は見捨てずに「あなたがたのために場所を準備する」と言われるのです。弟子たちはこのイエス様の言葉を思い出した時、自分はどんなに見捨てられていない自分であるのか、自分はどんなに愛されているのかを痛感したはずです。これほどの愛に満ちた、恵みに満ちた約束はありません。このみ言葉の約束こそ、暗闇の中での光であり、その中で立っていくことを可能にする希望であり、力を与えていくのです。


 今日の聖書の箇所で、神さまのもとにはたくさんの人々が安心して住むことのできる部屋があり、そのマンションが準備されていると言われることがあります。確かに将来与えられる神の国のマンションのイメージは分かりやすいかもしれません。けれども、今日の聖書のみ言葉は将来の希望だけを語っているのではありません。弟子たちはその住む所がどこにあるのか分かりませんでした。だから、その場所に行くにはどうしたらよいのか問うのです。


 けれども、イエス様のお答えを見る時、この住む所、家は、将来いつか与えられるものではなく、今ここにすでにあるのだと言われていることに気づきます。7節「今から、あなたがたは父を知る。いや(今)既に見ている」。9節「(今)私をみた者は父を見たのだ」。今、イエス様が共にいてくださる。父なる神はそのイエス様のようなお方である。そして、今このイエス様と共に、父なる神がおられます。「わたしが父のうちにおり、父がわたしの内にいる」とあるからです。イエス様が言われている住む所。その「住む所」という言葉は「とどまるところ」という意味があります。父なる神と共におられるイエス様にとどまっている。それが住む所なのです。御子イエス・キリストによって聖霊を通して御子イエス・キリストと父なる神との関係の中に私たちは招き入れられています。たとえ目には見えなくても、イエス様がおられる所に私たちはあり、私たちがいる所にイエス様はいるのです。それが今、私たちに起こり始めている神さまの約束の実現であり、神さまの恵みの奇跡なのです。


 「わたしは道であり、真理であり、命である」。イエス様が父なる神に至る道であり、イエス様を通して父なる神を知り、真理を知り、神と共にいます命を与えられます。イエス様が私たちの住まいであり、家であり、今、聖霊の働きによって、「あなたがたのために場所を準備する」、この約束の実現が始まっているのです。これほど私たちの心を安心させるものはありません。このイエス様がおられるからこそ、心を騒がせることをやめることができるのです。


 20世紀初めのトーマス・マートンというカトリック教会の信仰者の有名な祈りの言葉があります。

 「神よ、我が主よ、目の前に道が見えません。どこで終わるのかもはっきりわかりません。自分の現実の姿も知らないし、あなたの御意志に誠実に従っていると信じてはいても、本当にそうしているとは限りません。でもあなたを喜ばせたいと望むことで喜んでいただけると信じています。そして何をするにもこの望みを持ち続けたいと思います。この望みなしでは何もするつもりはありません。そうすれば正しい道へお導きくださるとわかっています。たとえそれがどのようなものか全くわからなくても。それゆえ、いつもあなたを信頼いたします。たとえ道を見失って死の暗闇に向かっているように見えたとしても。何も恐れません。あなたがいつも私とともにあり、危険の中に私を一人、見放したりは決してなさらないでしょうから」。
 自分が神さまに確かに受け入れられている、そのことを親を子供が喜ばせるように、父なる神を喜ばせたいと願うことから知るのだというのです。その私たちの思いを私たちを愛する神さまは受けとめ、受け入れてくださる。そうする時、神は正しい道に導いてくださると希望をもつことができるというのです。そして、この全ての根拠は、神がいつも共にあり、この神の愛する子供とされていることにあるのです。

 このトーマス・マートンという人も「私は道であり、真理であり、命である」、このキリストの福音に生かされていった一人でした。キリストが私たちの家であり、私たちを神の子として愛し、引き寄せ、見捨てることのないお方であり、私たちの道である。そのことから神は私たちを愛する子どもとして正しい道へ導いてくださる希望へと導かれています。「わたしは道であり、真理であり、命である」。このみ言葉が私たちを支えて生かしていくのです。

 イエス様が十字架で死なれた金曜日は「グッド フライデイ(Good Friday)」と呼ばれます。なぜ、グッドなのでしょうか。私たちが生きている罪と死が猛威を振るう場所、金曜日のような場所、そこにイエス様は来てくださり、罪と死の力に勝利し、新しい命、神と共に生きる命をもたらし、新しい創造の御業をはじめて下さいました。そのイエス・キリストに連なり、キリストによる神の御業に私たちは参加していくのです。そのことを「私の名によって願う」という言葉は示しています。キリストが私たちの歩み、教会の歩みを導き完成してくださいます。私たちは金曜日と言える現実のなかで、闇の中で、このキリストの希望の光、輝く光に包まれているのです。「よい」といえる恵みが与えられているのです。「わたしは道であり、真理であり、命である」。このみ言葉にイエス様の福音の全てが凝縮されています。このみ言葉が私たちを支え、変えていきます。このみ言葉を携えて、このキリストに希望をもって歩んでいきたいのです。

 

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