東京主僕教会の最近一か月の説教など

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2017年6月11日礼拝説教

「神にかたどって創造された」創世記1章26-31節

  

 自分は何者なのか。人間は何者なのか。それは詩編8編にもその言葉がでてくるように、古くて新しい問いであり、誰もが悩む問いでもあります。考えれば考えるほどわからなくなる問いでもあります。「我々自身は自分自身にとって神秘的である。

  我々は理性的であって非理性的であり、文明化されておりながら、野蛮である。親密な友情を結ぶことができると同時に、人を殺すほどの敵意を抱くこともある。自由でありながら軛に繋がれており、被造世界の頂点でありながらそれに対する最大の脅威でもある。我々はレンブラントでありヒットラーであり、モーツァルトであってスターリンである。アンティゴネーであってマクベス夫人であり、ルツであってイゼベルである」(『現代キリスト教神学』D.L.ミグリオリ著)。人間は善も悪も併せ持っている存在で、簡単に考えることはできません。また戦争の時代には人は物のように考えられ、扱われました。人の体は物質でできている、その見方で理解されたのです。けれども、私たちは自分は物であると考えてよいのでしょうか。

 人間は何者なのか。その問いに対して、昔から読まれてきた聖書のみ言葉は先ほど読んだ創世記1章27節です。「神にかたどって創造された」。神にかたどって、神の像として創造された、ということはどういうことでしょうか。昔から様々な解釈がなされてきました。たとえば、理性的、論理的であることだと言われました。でも、しばしば、非理性的、暴力的な面を表すのが人間なのです。また「善悪の見分けがつき、道徳的に判断できること」だと言われてきました。けれども、反対に冷酷となり、自分や人に対する愛も赦しも拒絶するのが人間なのです。「神に造られたものを権力をもって支配すること」だともいわれました。でも、その考え方は支配者と被支配者、優れているものと劣っているものを区別して差別することも起こってきました。そして男性が主人で女性は従う者という序列的な理解をも生み出したのです。そのような理解が家父長制、人種差別、植民地主義、環境破壊を生み出したのだと批判されてきました。また「自由であり自分で自分のことを決定できることにある」とも言われてきました。でも、そうなると、人間が全てのことを決定し作り出す主人であり、誰にも頼らない孤独な存在となってきます。これらの考え方は、全て自分の持っている能力を検討してでてきたものです。でも、そのどれもが、明らかに矛盾する現実があり、むしろ問題を生み出してきたのも事実です。そのままを受け入れることはできません。

 「私は何者なのか」。自分の存在の意味は何か。自分の人生の意味は何か。この問いに対する答えは自分の内面を探ったり、自分のことを研究することによっては見出すことはできません。私は何者なのか。神にかたどって造られたとはどういうことなのでしょうか。しかし、創世記で最初に造られたアダムとエバは、神の像に造られた人間とはどのようなものなのかを示す例にはなりません。神が造ろうとした人間であることを拒否していった物語だからです。そこで、大事になってくるのは、新約聖書のコロサイの信徒への手紙1章15節(368)の言葉です。「御子は見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です」。イエス・キリストこそ、神の像であるまことの人として生き抜いたお方であり、この方に、神の像に造られた人間とはどういうことなのか、真の人間性とは何かが示されているというのです。キリストの中にみる真の人間性とは、賢明さでも理性でもありません。他の人とは違った冷静、敬虔さ、道徳性でもありません。人を支配し、従わせるために権力を行使されたのでもありません。イエス様の生涯は「アッバ、父よ」と、父なる神への全き信頼と感謝をもって神の御心に従って仕えた生涯であり、人々のために、その幸福を願って生きた人でした。イエス様がこの世界に来られたのは、支配し、従わせるためではなく、ご自分を与えるためであり、仕えられるためではなく仕えるためでした。そしてそのために自分をなくしていったのではなく、神を愛し、人を愛することを自分の心として、どこまでも譲らず、愛をもって仕えることを大事にされました。神の像に造られた人間である、ということは、自分の中に、知的な能力や道徳的能力、霊的な能力を持つということではありません。イエス様のように自分の外の、神と人とのかかわりを持っていくということです。自分の存在の意味を神と人との関わりに発見するときに、神のかたちに従って造られた者として、真に人となり、真の自分を実現していくことができるのです。

 キリスト教倫理の出発点はイエス・キリスト人間性に結ばれて神のかたに造られた者であることを回復されていくことが出発点です。「キリストは人格化する人格であり、人間化する人間である」という言葉があります。私たちを非人格化して奴隷の状態のようにして無視していく世界にあって、真の人格として来てくださったキリストが私たちを一人の人格としてご自分につなぎとめ受け入れ大事にして人格を回復して下さいました。非人間化させていく世界の中で真の人間であるキリストが私たちの人間性を回復し、癒して下さいました。キリストは神と人を愛し、罪の中にある私たちのために仕え、死なれ、私たちの罪を赦し、復活して、愛する神の子として生きる道を開いて下さいました。イエス様がこの世界に来られ、ご自分に引き受けられた肉、人間性は神の像として造られながら神に背く私たちの罪深い人間性であり、その私たちの人間性をご自分のものとして十字架と復活によって聖め、贖い、私たちがこのイエス様の真の人間性にあずかって生きる者として下さいました。キリストにおける新しい存在である新しい人間を生きる者とされたのです。私たちはキリストによって、神の愛の中で、人格とされ、人間として癒されていくのです。非人格化し、非人間化していくこの世界にあって、それが大きな希望なのです。

 神はキリストによって私たちを、神を愛し、人を愛する者として、全ての被造物と共に、互いに共に生きることができる者として回復し、新しく造り変え、完成への導いてくださっています。自分は何者なのか、それは自分を検討することによっては本当の答えはありません。本当の答えはキリストにあり、キリストにおいてみられる神と人との関わりのなかで見出すのです。本当に人格とされ、人間とされていく、神のかたちに創造された人間として、私たちには大きな使命を与えられています。男と女に造られた、ということは神の像として造られたことを代表的な例として見ることができるのが男と女の人としての関係であり、互いに愛をもって配慮し仕えあい助けあう関係なのです。神さまが造られたこの世界の被造物を愛し、責任をもって保護し、配慮していくように招かれています。それがスチュワードシップと言われます。終わりの時に完成する神の愛の御国の完成に希望をもって、神さまの愛を映し出し、神と人に仕えながら、キリストを指し示し、神の命の豊かな交わりへと人々が導かれるように、神の人格化し人間化していく御業に仕えていくように招かれています。イエス様が私たちを愛し、私たちも愛して生きるようにと始められた神の国は必ず終わりの時に実現し完成するからこそ、私たちも今、そのことに希望をもって、神の国の市民として、愛をもって仕えていくことを始めていくことができるのです。私たちは終わりの時の必ず実現する神の国の完成の希望をもって、それは創世記の1章の始まりからすれば、闇の中に光をもたらす神の働きに参加していく光栄あることなのです。

 教会暦では今朝は聖霊降臨日の次の主日の今朝の礼拝は三位一体の神の恵みを覚える主の日の礼拝です。創世記の1章であり、詩編8編であり、マタイによる福音書のみ言葉です。マタイには復活され、天に昇られるイエス様が弟子たちに「彼らに父と子と聖霊の名によって、洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことを全て守るように教えなさい。私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と言われました。洗礼はキリストに結ばれていることが目に見えるものと示される時であり、キリストと共に私たちが神さまの愛する子供とされていることが明らかにされる時です。父と子と聖霊の名によって、とは、父と子と聖霊の命の交わりの中へ置かれることです。イエス・キリストによって、神のかたちの中へ招かれ、父と子と聖霊の交わりのなかへ招かれ、父と子と聖霊がいつも共にいて下さいます。私たちを創造し、贖い、共にいて、全てを完成してくださる神から決して引き離されることはありません。そのことが孤独な時、病気の時、嘆きの時、不安の時、絶望を覚える時、どんな時も慰めとなるのです。

 私たちが神のかたちを回復されていく場所、人格化され、人間化されて癒されていく場所、それが礼拝であり、礼拝が倫理、私たちの歩みの出発点です。この三位一体の神の恵みに感謝して、神さまを賛美し、礼拝することからその歩みは始まるのです。

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