東京主僕教会の最近一か月の説教など

礼拝に来ることができなかった方、教会に関心のある方のために牧師が作成しています。どうぞ、礼拝にも来てみてください。

2017年6月11日礼拝説教要約

「神にかたどって創造された」創世記1・26-31節

 

 「我々自身は自分自身にとって神秘的である。我々は理性的であって非理性的であり、文明化されておりながら、野蛮である。親密な友情を結ぶことができると同時に、人を殺すほどの敵意を抱くこともある。自由でありながら軛に繋がれており、被造世界の頂点でありながらそれに対する最大の脅威でもある」.

  人間は何者なのか。その問いに対して、昔から読まれてきた聖書のみ言葉は先ほど読んだ創世記1章27節です。「神にかたどって創造された」。神にかたどって、神の像として創造された、ということはどういうことでしょうか。昔から様々な解釈がなされてきました。たとえば、理性的な存在である、あるいは道徳的な存在である、あるいは世界を支配していく存在であると言われました。けれども、時に暴力、残酷性を発揮し、非道徳的な一面を見せるのが人間です。そして支配する者と支配される者、優れている者と劣っている者を区別し、差別し、隷属させてきたのも事実です。これらの特徴は、全て自分の持っている能力を検討してでてきたものです。そのどれもが矛盾につきあたり、問題をもっているのです。

 

 「私は何者なのか」。この問いに対する答えは自分を研究することによっては見出すことはできません。私は何者なのか。それはコロサイの信徒への手紙1章15節。に「御子は見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です」とあるように、イエス・キリストこそ、神の像であるまことの人なのです。キリストにみられる真の人間性とは、賢明さでも理性でもありません。他の人とは違った冷静、敬虔さ、道徳性でもありません。人を支配し、従わせるために権力を行使されたのでもありません。キリストはアッバ、父よと父なる神に感謝し、信頼し、神を愛し、人々のために、その幸福を願って生きた人でした。イエス様がこの世界に来られました。支配し、従わせるためではなく、ご自分を与えるために、仕えられるためではなく仕えるためでした。神の像に造られた人間である、ということは、自分の中に、知的な能力や道徳的能力、霊的な能力を持つということではありません。イエス様のように自分の外の、神と人とのかかわりを持っていくということです。自分の存在の意味を神と人との関わりに発見するときに、神のかたちに従って造られた者として、真に人となり、真の自分を実現していくことができるのです。

 

 「キリストは人格化する人格であり、人間化する人間である」(T・F・トランス)。私たちを非人格化して奴隷の状態のようにして無視していく世界にあって、真の人格として来てくださったキリストが私たちを一人の人格としてご自分につなぎとめ受け入れ大事にして人格を回復して下さいました。非人間化させていく世界の中で真の人間であるキリストが私たちの人間性を回復し、癒して下さいました。

 

 イエス様がこの世界に来られ、ご自分に引き受けられた肉、人間性は神の像として造られながら神に背く私たちの罪深い人間性であり、その私たちの人間性をご自分のものとして十字架と復活によって聖め、贖い、私たちがこのイエス様の真の人間性にあずかって生きる者として下さいました。キリストにおける新しい存在である新しい人間を生きる者とされたのです。私たちはキリストによって、神の愛の中で、人格とされ、人間として癒されていくのです。非人格化し、非人間化していくこの世界にあって、それが大きな希望なのです。