東京主僕教会の最近一か月の説教など

礼拝に来ることができなかった方、教会に関心のある方のために牧師が作成しています。どうぞ、礼拝にも来てみてください。

2017年6月25日礼拝説教

「約束を実現してくださる神」マタイ9・9-13     

 

 先ほど読みましたマタイによる福音書の箇所に福音書の名前と同じ「マタイ」という徴税人が登場してきます。教会の歴史のなかで、2世紀以来、ここに出てくるマタイがこの福音書の著者であると言われてきましたが、

 最近の研究ではそうではなく、紀元80年ごろに伝えられてきた伝承をまとめたものであり、その名が同じ「マタイ」と呼ばれるユダヤ人のキリスト者であったということが判明しています。この福音書をまとめた「マタイ」はこの徴税人の「マタイ」を自分には何の関係のない人として考えていたのではなく、同じ名前であるこの徴税人マタイに特別な思い入れをもって、自分を重ねるようにこの人に起こったことを伝えたのではないかと思います。ここに登場する徴税人マタイですが、この「マタイ」という名前はヘブライ語の「神の賜物」という言葉に由来しています。

 しかし、マルコによる福音書の2章14節にも同じような話がありますが、名前が違っていて、収税所に座っていた人の名は「レビ」と伝えられています。二人別々の人物なのかと思えますが、名前が二つあることは当時おかしなことではなく、マタイのもともとの名前はレビであり、イエス様と出会って従ってから、名前が「マタイ」と呼ばれるようになったと考えることもできるのです。徴税人であったレビはイエス様と出会ってから、マタイ、自分に与えられた神の賜物、神の恵みを発見したのです。マタイによる福音書では、この出来事がマルコのように始まりにあるのではなく、8章と9章の奇跡の出来事の中で記されています。徴税人レビに起こったこと、このマタイに起こったことは当たり前のことではなく、まさに神の奇跡によって与えられている恵みの出来事であることを伝えています。それはマタイだけではなく、この福音書を読み、イエス様のみ言葉を聞いていく時に私たちに起こっていく恵みであることを伝えているのです。

 しかし、マタイによる福音書のイエス様とマタイの出会いは本当に短く書かれています。「イエスはそこを立ち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った」。正直言ってもっと詳しく書いてくれればよいのにと思ってしまいます。イエス様がマタイを見て、どう思ったのか。特にマタイがイエス様に「従ってきなさい」と言われた時、どうしてすぐに従っていったのか。その徴税人という仕事をすぐに辞めて従っていくのは大変なことです。しかし、そうであるからには何か深い悩みを抱えていたに違いないと思えてしまいます。しかし、マタイによる福音書がその心の心理的な動きを書いていないのは、それは大事だけどしかし重要なことではない、一番伝えるべき重要なことは他にあると判断しているからです。だとするならば、大事なこと、それは一体何でしょうか。

 実はこの聖書の箇所は私が神学生時代に説教演習という授業で課された聖書の箇所であり、それ以来、私の課題としてあり続けている聖書のみ言葉です。説教演習の聖書の箇所はその人が将来教会に仕えるようになってから支えとなり励ましとなるような聖書の箇所として選ばれると思いますが、そうであるなら、教会に仕えていく、信仰者として生きていく時に大事なことは何かと考えさせられるのです。

 それはマタイの心の内側に起こったことではなく、マタイの外側に起こっていったこと、マタイがイエス様のみ言葉によって従う者に変えられていったということです。確かにマタイがどう思っていたか、何を妨げとして考えていたのか、何を悩んでいたのかは大事なことです。真剣に受け止めていかなくてはなりません。しかし、それ以上に、むしろその悩みの中にあり、様々な妨げを覚える私たちにとって大事なこと、その私たちが支えられ生かされていくのは、私たちを従う者に変えていく神の恵みの力、み言葉の力であり、神の御業、神の約束が実現していくことへの信頼なのです。

 このマタイは収税所に座っていました。イエス様の時代のユダヤの徴税人は支配者であるローマ帝国のために、同法のユダヤの人々から税金を取り立てていました。ユダヤを占領し支配している敵のローマ帝国のために自分たちからお金をとりたてているのです。ユダヤの人々から見れば敵であり憎むべき存在でした。さらに当時の徴税人の中には必要以上にお金を取り立てて私腹を肥やしていた人も多くいたことが伝えられています。なおさら嫌われていたのです。律法では汚れているとみなされ、神殿への出入りも禁止されていました。人々から詐欺師や殺人犯より悪い人々だ、世の中で最悪の罪人、最も罪の深い人々だ、と考えられていたのです。しかし、その最悪、最大の罪人に、イエス様は声をかけ、さらに多くの徴税人や罪人をご自分が使用していた家に招待し、食事を共にされたのです。

 旧約聖書の専門家であるファリサイ派の人々は、このイエス様の振る舞いを見て見ぬふりをすることはできません。そのような罪人を家に招き、招待することは神さまの御心ではないと考えています。明らかに、このファリサイ派の人々とイエス様の考え方が違っています。行動のもととなり、行動を生み出していくものはその人の考え方、目標、ビジョンです。そのビジョンが違っています。ファリサイ派の人々のビジョンは、神さまはこのような罪人を受け入れないので離れるべきだというものです。けれども、イエス様のビジョンはこのみ言葉に現れています。「医者を必要とするのは丈夫な人ではなく病人である。『私が求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か行って、学びなさい」。

 二重括弧は旧約聖書のホセア書6章のみ言葉です。このホセア書の箇所では、神はイスラエルの人々を癒す愛に満ちた憐み深い医者、治療者であり、そして、その神に仕える真の僕はその人自身が憐み深くなることが告げられています。父なる神は憐み深いお方であり、神さまがどんな罪人であっても、神さまは愛し、受け入れ、愛をもって神と人とを仕える者とされていくこと、神の憐みを映し出す者となることを願っておられます。そのビジョンに従って、イエス様は徴税人を招き、共に食卓を囲んだのです。そのビジョンをイエス様はマタイに実現していきました。マタイはイエス様の食卓に奉仕し、神さまの憐れみに仕えていく者となりました。神さまはこのビジョンに従って、神さまの深い憐れみに生かされていくことを願って、遠い昔からアブラハムを召し、預言者たちを召し出し、そしてイエス・キリストによって、「私に従いなさい」と人々を招き、実現されてきたのです。「私に従いなさい」。何があっても神の憐れみを私たちに実現していくみ言葉が今朝、私たちにも語られています。一人一人の生活の場所で神の憐れみを映し出す者として用いて下さいます。必ず実現する御言葉を私たちは与えられているのです。

 マタイがこの時、どのように感じていたのかは分かりません。けれども、確かなことは、「私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」、この目の前で語られたイエス様のみ言葉を思い出すたびにいつも、イエス様を通して与えられている、誰も隔てることのない神さまの大きな深い憐れみ、永遠に変わることのない大きな愛の中に、そのまなざしの中に自分が包まれていることを知っていったということです。神の深い愛の中で本当の自分を知り、この愛の前に自分を見つめなおし、イエス様に助けられて、悔い改め、イエス様に従って、神を愛し、人を愛して生きるようになっていった、ということです。

 「ゴスペル・メディシン」、福音の薬という言葉があります。福音によってしか癒されない病があります。福音の薬があるならば、本当に健やかに生きることができる。神の憐れみを信じ、悔い改め、神と人を愛して生きること。神の憐れみに従って生きること。マタイはそのことが罪深い者である自分にとっての究極の癒しであり、本当に健やかにされていく道であることを確認していくのです。

 ファリサイ派の人々はあの人たちは罪深い、だから神に受け入れられず、裁かれている存在であり、汚れているのだと思っていました。それは一種の因果応報の考え方です。この世界、日本の諸宗教の中にも因果応報の思想、教えが強くあるものが多くあります。それは私たちの心の中に、人間の心の中に根深くある考え方であることを示しています。確かに原因を考える時、正すべきもの、反省すべきものがあれば、改めなければなりません。けれども、私たちはこのような因果応報の冷たい考え方、法則によって支配されているのではありません。イエス様がご自分のビジョンとしてもっておられたように、何があっても、どのような時も、神は憐み深い神であり、私たちを神の憐れみに生きる者、神の命に生きる者に変えてくださる、完成してくださる、この神の愛によって支配され完成されていくことにこそ、私たちの慰めがあり、喜びがあり、希望があるのです。

 この年の歩みも7月から後半に入りますが、この時、イエス様が持っておられたように、私たちもその神の愛のビジョンをもちたいと思います。そして、「私に従ってきなさい」という私たちに必ず実現していく神の約束、この神の御言葉を携え、イエス様に助けられ、従っていく者とされながら、健やかな道を歩んでいくことができるように、お祈りします。