東京主僕教会の最近一か月の説教など

礼拝に来ることができなかった方、教会に関心のある方のために牧師が作成しています。どうぞ、礼拝にも来てみてください。

2017年7月2日礼拝説教

「神に愛されている者として」マタイ10・26-31   

 

 マタイによる福音書の聖書のみ言葉には「恐れる」という言葉が繰り返しでてきます。私たちの人生には様々な恐れや不安があります。生活のこと、人間関係のこと、仕事のこと、体のこと、病気のこと、将来のこと、やがて迎えていく死のこと。私たちは不安や恐れに囲まれて生きています。恐れのない人生はなく、不安のない人生はありません。

  福音書の全体を読むと、イエス様に従っていく弟子たちにも人生の歩みの中で恐れや不安に包まれたことが分かります。その最たるものが「人々に対する恐れ」だったと言えるかもしれません。今日の聖書のみ言葉には「人々を恐れてはならない」、特に人に対する恐れが取り上げられています。この聖書の箇所は16節から始まる大きな話の一部ですが、「わたしはあなたがたを遣わす」とあるように、イエス様から一人一人の生活の場へと送り出していく弟子たちに語られた言葉であり、その弟子たちに起こってくることに対してどのように対処していったらよいのかが語られています。イエス様の弟子である、クリスチャンであるからといって、恐れや不安がないのか、という決してそうではありません。イエス様を信じるがゆえに、信仰ゆえに起こる苦しみもあります。イエス様の人生がそうであったように、人から理解されない。迫害を受ける、そのようなことも避けることはできません。

 私たちもイエス様から一人一人日々の生活の場所へ遣わされて生きています。この弟子たちに語られているような迫害と言えるようなこと、それに近いこと、人の無理解と言えるものにも直面することがあるかもしれません。けれども、ここに書かれているような迫害と言えるようなことは自分にはないと思う人もおられるかもしれません。しかし、人に対する恐れがないからと言っても、そうであったとしても、このイエス様のみ言葉は、私たちが様々な不安や恐れを心に覚える時、私たちに勇気を与えていく大切なみ言葉なのです。

 でも「人々を恐れてはならない」とその後に続いていく、その理由を語る言葉を見ていくと、よくわからなくなります。「覆われているもので現わされないものはなく、隠されているもので知られずにすむものはないからである」。覆われているもの。隠されているもの。この言葉は、自分の心の中で覆いをしているもの、隠しているものを指すのでしょうか。人には隠したい、知られたくない、そう思っていることを明らかにしていく。それはできればしたくないこととと思いますし、恐れがなくなるのではなくむしろ恐れを大きくしていくものと思えます。

 けれども、ここで言われているのは、私たちの心の奥底にあることではなく、27「私が暗闇であなたがたに言うこと」です。イエス様が暗闇で弟子たちに言ってきたこと、耳打ちしてきたように伝えてきたこと、神の知恵、神さまの福音です。イエス様が「悔い改めよ。天の国は近づいた」と初めに言われ、教えられてきた天の国、神の国の福音です。イエス様によって、父なる神の国の支配、神さまの恵みの支配が私たちに及んではじまっている、ということです。その神の国、神の恵みの支配は必ず完成する、ということです。このことは捕らえられたり、迫害されたりする人々に励ましを与えてきました。イエス様の福音は必ず実現し、成就する。ベルゼブル、悪魔の家の者と呼ばれ苦しみ、罪人とみなされる弟子たちはやがて必ず無罪となる。誤った先入観で罪人と呼ばれていたことが明らかになる。見世物のようになっていた人々のその実、信仰の忠実さ、信じていることの真実が必ずやがて明らかになる。そのことはイエス様に従う弟子たちに力を与えてきたことでもあるのです。

 イエス様は慰めの言葉を与えて下さいました。28節「体を殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな」。迫害する人々は体を殺しても、それ以上のことはできない。「むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことができる方を恐れなさい」。人間には魂を殺すことができない。できるのは天地と全てを創造し命を与えた神だけである。だから、その神を恐れなさい。このように読むと、神さまは本当に恐ろしい方なのだ、と思います。この神さまは恐ろしい方だから、この神さまに怯えて生きなければいけないのか、神さまは本当に信頼できる方なのか、と思えます。

 けれども、イエス様はそこで終わらせないために言葉を続けられます。29節「二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの天の父のお許しがなければ、地に落ちることはない」。当時、雀は一羽で認められることがなく二羽で売られていました。一アサリオンは一日の労働賃金の16分の1にあたります。このみ言葉のすばらしさは、そんな小さな雀、動物、最も小さなものでさえ、神さまは目にとめておられます。最も小さなもの、軽んじられているような小さなものを神は愛し、守り、配慮しておられるということです。この雀を守る神さまの御心がなければ、雀は地に落ちて餌を食べることはありません。死ぬということの中にも神さまの愛の配慮と守りがあるのです。小さな子供が飼っている動物が召された時、私たちはこの小さなものを神さまは愛し、守り、配慮しておられるのだ、とこの箇所から慰めを語ることができるのです。

 こんな小さな動物、小さな雀がこれほど神さまに大事にされているのなら、なおさら雀よりもはるかにまさったと言われている人間は大事にされています。「あなたがたは髪の毛までも一本残らず数えられている」。自分の髪の毛を数えたことはありません。時間のかかる面倒な作業に思えます。けれども、神さまは面倒に思うことなく、忍耐深く一本一本数えて下さっています。それほどに私たちは一人一人神さまに愛され守られて、価値ある者とされている大事な存在なのです。だからこそ、キリストの十字架と復活があり、私たちはキリストのものとされたのです。

 教会の歴史のなかで、この聖書のみ言葉は慰めと勇気を与えるものとして大事にされてきました。16世紀半ばにハイデルベルクで出版され、今も使用されているハイデルベルク信仰問答の第一問とその答えにこの聖書の箇所が引用されています。「生きている時も、死ぬ時も、あなたの唯一の慰めは何ですか」。この第一問で始まるハイデルベルク信仰問答は父親の世代の牧師たちが洗礼準備会の時によく使用してきたものですが、第一問に対する答えは信仰問答の全体の内容を要約しています。

 答え「生きている時も、死ぬ時も、身も魂も、私自身のものではなく、私の信頼する救い主イエス・キリストのものである、ということであります。主は自らの血の犠牲によって、私の全ての罪を完全に支払ってくださり、私を悪魔の支配から全く解き放って下さいました。主は私を実によくお守りくださるので、天にいます父の御心なくしては、私の体からただ一本の髪の毛も落ちることはできません(マタイ10・29-31)。 まことに、すべて一切のことが、私の救いのために、主の目的にかなっているのであります。従って、聖霊によってもまた、主は私に永遠の命を保証し、私を今から主のために、心を込めて、喜んで生きるようにしてくださるのです」。

 私たちは身も魂も、生きている時も、死ぬ時も、私自身のものではなく、キリストのものである。ここに信仰の大事なポイントがあり、私たちを支える恵みのポイントがあります。私たちは罪と死の力から救われている者であり、恐れや不安の中にあっても慰めを受けている者であることを強調しています。身も心も魂も精神も救い主イエス・キリストのものである。だから全てをもって神の栄光のために奉仕する。神は恐怖の神、脅かしてくる神ではなく、本当に信頼できる愛に満ちた神であり、この神の恵みに感謝して歩むことを歌っています。

 自分は自分のものではない、と聞くと、疑問に思えるかもしれません。けれども、いつかは死んでゆく自分、気まぐれさに左右される自分、因果法則に支配されていると思っている自分、罪と死の力に支配されている自分、そことに本当に希望を持つことができるのでしょうか。罪と死の力に勝利して今も生きておられるキリスト、全てをものを支配し、この世界に神の恵みの支配を完成してくださるキリストのものとされている。そのことに希望があるのです。どんなものもキリストに示された神の愛から私たちを引き離すことはできません。

 神に愛されている者、キリストのものとして、この神の愛をもって、神と人を愛し、神の栄光のために仕えていく、それが「自分の十字架を担って」主に従っていくことです。この年の後半の歩みが始まりましたが、不安や恐れを抱える私たちがこのみ言葉によって支えらえ、慰めと勇気を与えられていくようにお祈りします。