東京主僕教会の最近一か月の説教など

礼拝に来ることができなかった方、教会に関心のある方のために牧師が作成しています。どうぞ、礼拝にも来てみてください。

2017年7月9日礼拝説教

「疲れた人はわたしのもとに来なさい」マタイ11・25-30 

 

 私は今日の午後3時30分から静岡市駿河区にある静岡池田伝道所の礼拝説教に奉仕することになっています。礼拝が終わったらすぐに移動しなければなりません。静岡それも駿河という言葉で思い浮かべるのは大河ドラマの主人公の井伊直虎であり、

 その直虎が育てた井伊直政、その井伊直政が家来となった徳川家康です。徳川家康は後に江戸幕府を開いた人ですが、幼少期の8歳から19歳までの多感な時代を父親の政治的な取引の道具として織田家と今川家の人質となって生活を送りました。その家康は「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし」という有名な言葉を残しました。その後に「不自由を常と思えば不足なし。こころに望みおこらば困窮したる時を思い出すべし。 堪忍は無事長久の基、いかりは敵と思え」と言葉が続くように、人生は辛く、そもそも不自由にできているのだから耐え忍ぶことが必要だ、人生は修行である、という意味です。日本では昔からこのように考えられてきたのです。けれども、忍耐すること、耐え忍ぶことは容易なことではありません。

 今日の聖書の箇所に「重荷を負う者」という言葉がでてきます。人には誰でも負っている重荷があります。仕事をしている人は与えられた責任を重荷として負っています。時には理不尽な命令を重荷として負うこともあるかもしれません。また家族に対する責任を負っています。学生も勉強や競争というような重荷をおっています。人間から生まれる重荷もあります。自分や家族の病気や老いということも重荷として考えてしまいます。様々な重荷を負って、ストレスを抱えて生きています。

 この時、この御言葉を語られたイエス様も重荷を負っていました。今日のみ言葉の直前では20節からのところで、ガリラヤの人々の誰にもイエス様が理解されない。誰からも拒絶されていたことが分かります。負わねばならない重荷が何もない。そのような人は一人もいません。誰もが何かの重荷を抱えています。イエス様はこのような重荷を抱えて歩んでいる私たちが、ただ忍耐するのではない、本当の安らぎ、本当の力を与えられて生きることができる生き方へと招いて下さっています。

 しかし、「疲れた者、重荷を負う者は、誰でも私のもとに来なさい。休ませてあげよう」という言葉の後に来る「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」と言う言葉を読んで、おやっと思ってしまいます。様々な重荷を負って疲れ果て、休みを得るために、休息を得るために、何か安らぎを得るために教会に来たのに、さらに新たなキリストの軛という重荷を負わなければならないのか、さらに重荷を負わせられてもっと疲れることになるのではないかと思えます。新たな重荷を負ってますます疲れていくのではないだろうかと思ってしまいます。重荷に重荷を追加していく、新たな重荷を加えて疲れさせていく、それが聖書にでてくる律法学者などが人々にしていたことだったのです。教会はそのようにならないように注意しなければなりません。

 けれども、新たな重荷を負わせるためではなく、重荷を軽くさせていくキリストの軛なのです。「くびき」とは馬車や荷車を、牛や馬などの家畜につなげて負わせるための道具です。重荷を負わせるための道具です。イエス様は大工の家に生まれました。だとするならば、父親や職人達が人々のために家畜につなげるためのくびきを制作していたのをよく見て、自分も作ったことがあるので、このように例えて言われたとしても不思議ではありません。

 一頭では引くことの困難な荷物も二頭が軛で繋がれることによってその荷が軽くなり、足取りが軽くなるのです。窮地の中で自分一人で人生の重荷を抱え込む。これほどつらい、苦しいことはありません。けれども、私たちの重荷をキリストが共に負っていてくださいます。私たちの痛み、私たちの弱さ、私たちの病、私たちの罪、私たちの死。私たちの全ての重荷をキリストが負って共に下さっています。そのことは、私たちはどんな時も一人ではない、キリストが共にいてくださり、神が共にいてくださる。決して自分は見捨てられた存在ではない、と慰めを与えられます。

 けれども、この箇所で注意をしたいのは、軛を負う、という言葉の後に「わたしに学びなさい」という言葉があることです。この言葉は「勉強する」というよりも「弟子になる」という言葉です。イエス様の弟子になり、イエス様の教えを学び、イエス様にならって、イエス様に従っていくということであり、神を愛し、隣人を自分のように愛して仕えていく、という深い意味があります。それがイエス様のもとに来て、軛を負う、ということであり、そこでこそ深い安らぎを得ることができるのです。

 6月に銀座の教文館星野富弘さんの詩の入った絵の展示が行われていたようですが、行かれた方もあるかもしれません。星野さんは群馬大学教育学部卒業後、高崎市の中学校の体育教諭となりました。 2ヶ月後、クラブ活動の指導中に頸髄を損傷、手足の自由をまったく失ってしまいました。 九年間の病気生活中に、口に筆をくわえて詩の入った絵を書き始めました。そして、その作品が多くの人に励ましを与えてきました。ここで紹介する詩も、星野さんの作った詩の中で、信仰者、キリストに出会い、従っていくとはこういうことなんだ、と、私が時々思い出すものです。

 「いのちより大切なもの」という詩です。「いのちが一番大切だと思っていたころ、生きるのが苦しかった。いのちよりも大切なものがあると知った日、生きているのが嬉しかった」。

 よく健康が第一といいます。健康が大事であり、命が大事である。確かにそれは大切ですが、 人はずっと健康でいられるわけではありません。 皆、病気にもなり、いつか弱り、やがて死を迎えます。 星野さんは健康とすぐれた体育の能力、それらを一瞬のうちに失い、絶望の淵に落ちたのです。 しかし、星野さんは入院中に聖書に初めて出会い、 「いのちよりも大切なもの」を知って生きる希望と喜びを見出だしたのです。

 「いのちよりも大切なもの」。それは自分の命を賭けていくことのできるものであり、自分の命、自分を本当に委ねていくことができるものと言うことができます。「いのちよりも大切なもの」とは何か。このように問われる時、星野さんはその人によく考えてもらいためにあまり答えない、と言われていますが、「いのちよりも大切なもの」を今日の聖書のみ言葉から考えることができます。

 その直前にある、人から理解されない、思うようにならない人生の現実の中でイエス様が祈られている言葉から考えることができます。「天地の主である父よ」。私たちにいのちを与え、愛し、育み、生かしてくださる万物の創造主である父なる神がおられる。この神が私たちを神の愛する子供として全てを知って下さっている。そして神さまの愛をイエス様と一緒に知って、どんな弱さの中にあっても、貧しさの中にあっても、神さまの愛と命をイエス様と共に分かち合い、人々に伝え、表していく器として用られる、ということです。イエス様と一緒に神の国の御業に仕えていく器とされているということです。

 私たちのいのちは父なる神の愛の御手の中にあり、この神の愛によって支えられ、健康なときも、病むときも、どんな境遇の中にあっても、神の愛を表す器として用いられ、生きることができるのです。この神さまの愛の御心をイエス様を信じ従っていく時に深く知って安らぎを得ていくことができるのです。

 「わたしは柔和で謙遜な者である」。「柔和」と「謙遜」はもともと「身を小さくかがめた姿勢」を表す同じ言葉から生まれています。イエスは身を小さくかがめるようにして私たちのもとに来て、共にいてくださり、私たちを愛して、導いてくださいます。このイエス様はどんな時もいつも変わることはありません。私たちも自分を神の前に大きくしていくのではなく、イエス様のように幼子として神さまに向き合い、神さまの愛を信じていきたいと思います。

 「いのちよりも大切なもの」とは何か。それが今朝、わたしたちにも問われています。「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。このみ言葉は私たちに実現していく約束なのです。