東京主僕教会の最近一か月の説教など

礼拝に来ることができなかった方、教会に関心のある方のために牧師が作成しています。どうぞ、礼拝にも来てみてください。

2017年7月9日礼拝説教要約

「疲れた人はわたしのもとに来なさい」マタイ11・25-30

 

 

 徳川家康は「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし」という有名な言葉を残しました。人生は辛く、そもそも不自由にできているのだから耐え忍ぶことが必要だ、人生は修行である、という意味です。

  けれども、忍耐すること、耐え忍ぶことは容易なことではありません。けれども、イエス様の招きは重荷を抱えて歩んでいる私たちが、ただ忍耐するのではなく、本当の安らぎ、本当の力を与えられて生きることができる生き方への招きなのです。

 「休ませてあげよう」の後に「わたしの軛を負い」と出てきます。様々な重荷を負って疲れ果て、休みを得るために、休息を得るために、何か安らぎを得るために教会に来たのに、新たな重荷を負ってますます疲れていくのではないだろうかと思ってしまいます。けれどもキリストの軛は、新たな重荷を負わせるためではなく、重荷を軽くさせていくキリストの軛なのです。

 一頭では引くことの困難な荷物も二頭が軛で繋がれることによってその荷が軽くなり、足取りが軽くなります。窮地の中で自分一人で人生の重荷を抱え込む。これほどつらい、苦しいことはありません。けれども、私たちの重荷をキリストが共に負っていてくださいます。私たちの痛み、私たちの弱さ、私たちの病、私たちの罪、私たちの死。私たちの全ての重荷をキリストが負って共に下さっています。そのことは、私たちはどんな時も一人ではない、キリストが共にいてくださり、神が共にいてくださる。決して自分は見捨てられた存在ではない、と慰めを与えられるのです。

 けれども、軛を負う、という言葉の後に「わたしに学びなさい」という言葉があり、軛を負うということはさらにイエス様に学ぶこと、「弟子になる」という深い意味があるのです。イエス様の教えを学び、イエス様に従っていく。神を愛し、隣人を自分のように愛して仕えていく。そこでこそ深い安らぎを得ることができるのです。

 星野富弘さんの「いのちより大切なもの」という詩があります。「いのちが一番大切だと思っていたころ、生きるのが苦しかった。いのちよりも大切なものがあると知った日、生きているのが嬉しかった」。「いのちよりも大切なもの」。それは自分の命を賭けていくことのできるものであり、自分の命、自分を本当に委ねていくことができるものと言うことができます。

 私たちに安らぎを与え、力を与える「命よりも大切なもの」。それは、私たちにいのちを与え、愛し、育み、生かしてくださる万物の創造主である父なる神がおられることです。この神が私たちを神の愛する子供として全てを知って下さっていることです。そして神さまの愛と命をイエス様と共に分かち合い、人々に伝え、表していく器として用られるということです。イエス様と一緒に神の国の御業に仕えていく器とされているのです。

 私たちのいのちはどんな時も父なる神の愛の御手の中にあり、この神の愛によって支えられ、健康なときも、病むときも、どんな境遇の中においても、神の愛を表す器として用いられていくものとされています。この神さまの愛の御心をイエス様に従っていく時に深く知り、力を与えられていくことができるのです。

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