東京主僕教会の最近一か月の説教など

礼拝に来ることができなかった方、教会に関心のある方のために牧師が作成しています。どうぞ、礼拝にも来てみてください。

2017年7月16日礼拝説教

「種を撒き続ける神」マタイ13・1-9、18-23   

 

 突然起こった九州北部の豪雨は大きな被害をもたらしました。この被害のために苦しんでいる人々のために祈っていきたいと思います。報道では、農業でも田んぼが川になるというように大きな被害がもたらされています。

 関係者の方々によれば、「5年前にも豪雨があり、覚悟していたけれども、被害は予想以上だった」というコメントもありましたが、今年も来年も収穫がもう見込めない大変な状況のなかで「自分よりも困っている人々を助けていきたい」という言葉があり、励ましも与えられます。農家の方々の大変な心痛、置かれている状況の深刻さ、また農業という仕事の大変さを思わされます。どんなに計算して予測して頑張って作業を進めていっても、どうにもならないことが起きてくる。計算して力を尽くして成功を願って始めたことも失敗することがあり、挫折することもあるのです。人間の力では絶対にコントロールできないことがある。基本的にそれを覚悟の上で、しかしなお希望をもって作業をしていくのが農業です。とても気弱ではできない仕事に思えます。今日のマタイによる福音書の聖書のみ言葉にも失敗や挫折があることを踏まえながら希望をもって種をまく人のたとえ話がでてきます。

 イエス様のたとえ話はそれを聞く普通の人々がよく普段から知っていることを取り上げながら語られていきますが、このたとえ話はどのような意図をもって語られたのでしょうか。この聖書の箇所の直前を見ると、11章の始まりで「イエス様が方々(ほうぼう)の町で教え、宣教された」とあり、そのイエス様の歩みには、イエス様の教えを聞いて信じる人々もいれば、イエス様の教えを受け入れず、拒否する人々も多くいたことが分かります。失敗、挫折と言えるようなことも多く起こっています。けれども、イエス様はそのことを覚悟しつつ、希望をもって歩んでおられます。私たちの人生も失敗や挫折という出来事は避けることはできません。教会の歩みもそうかもしれません。人間は全てのことをコントロールして思い通りに進めることはできません。けれども、それを踏まえつつ、希望をもって歩んでいくことができるのです。そのために語られたのがこのイエス様のみ言葉であり、神さまはどのように私たちに働いて下さるのか、それに従ってどのように歩んでいくのかを示して下さっています。車で道に迷った時に助けとなり、導きを与える道路地図のように、今日のみ言葉は人生を歩んでいくための大事なロードマップなのです。

 この譬え話は、イエス様が当時の民衆、普通の人々がよく知っていることを使って語られています。今は種を蒔く前に、まず種が蒔かれる土壌を耕しますが、当時のパレスチナでは、まず先に種をまきました。それもあらゆる所に種を蒔き、その後でその土地を耕していったのです。最初に種が撒かれる道端、この「道」は刈り入れ後の農閑期に村人が行き来するうちにできる通路です。やがて耕されて農地に変わるので、農夫は気にせずに道に種を蒔いていきます。石だらけの土の少ない所にも種は撒かれていきますが、後にその石も取り除かれ、農地に変わる可能性があります。だから種を蒔いていきます。茨が生えていても後に耕されます。だから農夫はそこが茨が生えている場所であっても、気にせずに種を蒔いていくのです。

 しかし、このイエス様の譬え話は、撒かれた種がその後、どうなったのか、ということに焦点があてられています。18節から23節を読むと、この譬えの解説をイエス様がされています。種を撒く人はイエス様であり、蒔かれる種はイエス様のみ言葉であり、聖書のみ言葉です。そして種が撒かれる土地はそれを受け取る人々です。まず道端に撒かれたものは、御国の言葉、イエス様の言葉を聞いても悟らない、左の耳から入った言葉が右の耳から出て行ってしまう。二番目の石だらけの場所は道端よりはよいように思えますが、問題はみ言葉が心に入っても、み言葉に根を張らないということです。御言葉を一度受け入れても、それが心にしっかりと根付かない。心のごく表面にとどまってしまう。自分の心に御言葉を寄せ付けない硬い石のようなものがある。そこを突き抜けて、根を張っていくことができない。だから、何か困難が生じてくるとつまずいてしまいます。茨の中に撒かれるのは、石だらけのところよりもよいように思えますが、問題はたとえ根をはっても、世の思い煩いや富の誘惑で、み言葉が覆われて、塞がれてしまいます。み言葉によって示されている神さまの愛、神さまの恵みを見失ってしまいます。しかし、このようにみてくると、道端に撒かれたもの、石だらけのところに落ちたものも、茨の中に落ちたものも、どれもが自分に思い当たるものがあり、あてはまる、と思えます。このようなことは私たちの人生に起こってきたことであり、しばしば経験することでもあります。だとするならば、良い土地に撒かれたもの、百倍、六十倍、三十倍とは言えないまでも、実りを結ぶ土地になる可能性はないのでしょうか。

 決してそうではありません。なぜなら、種を撒く人はイエス様であり、神だからです。そして撒かれる種はイエス様のみ言葉であり、神さまが力をもって働かれるみ言葉だからです。聖書には次のような言葉があります。「私の口から出る私の言葉も、空しくは、私のもとに戻らない。それは私の望むことを成し遂げ、私が与えた使命を必ず果たす」(イザヤ書55章)。イエス様によって蒔かれ与えられる種、神さまの言葉は生きて働きます。私たちを愛する神の子として成長させてくださいます。「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています」(フィリピの信徒への手紙1章)。私たちは神の畑なのです。6「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です」(コリントの信徒への手紙一3章)。どんな場所に落ちる種であっても、その種が落ちる場所、人の心、私たちの心を変えていく神さまの働きがあるのです。

 イエス様はこの神さまの働きの中で神の畑が豊かに成長するために18節と23節で「聞いて悟る」という言葉を繰り返して語られています。聞いて悟ってほしい。そう願われているからこそ、繰り返して語られているのです。この「悟る」という言葉は、もともと、二つのものを一つに並べる、総合する、まとめる、という意味がある言葉です。今の自分の現実をイエス様の御言葉と並べていく、それを一つに結んでいく、総合していく。それが「悟る」ということであり、それが神さまの導きの中で起こるのです)。このように悟る時、み言葉を奪われることがありません。み言葉に根を張っていくことができます。艱難や迫害が起こっても、そこで信仰を失うことはありません。富の誘惑や世の思い煩いに直面しても、み言葉によって、神さまが生きて働いておられることに支えられ、神さまの働きに希望を持つことができます。イエス様を三度も否定したペテロも他の弟子たちもこのようにみ言葉を聞いて悟るように不思議な仕方で導かれ、30倍、60倍とあるように、それぞれの仕方で違った実り、神さまの恵みの賜物を与えられ、神さまの働きに用いられていきました。それは私たちにも与えられている神さまの働きなのです。大切なのは聞いて悟ること、そしてそれ以上に、成長させてくださる神に信頼することなのです。

 今日の聖書のみ言葉を読む時に、イエス様と同じように、私たちの人生にも、教会の歩みにも、思うにならない現実があり、失敗や挫折といえるものが起こることは避けられないことを思います。それを受け入れて念頭においていくことが必要です。けれども、耕し、成長させてくださる神さまが必ず実りを結ばせてくださるものも確かにあるのです。そこに確かな希望もあります。聖書のみ言葉に聞いている私たち一人一人がその神さまの働きの確かな証拠なのです。神さまは聖霊をもって全ての人に働いて、この世界を救いの完成に導くために生きて働いておられます。だからこそ、教会は失敗や挫折を恐れず、たとえ失敗しても、挫折しても、希望をもって、様々な仕方で、神さまのみ言葉の種を撒いていく働きに仕えていくことができるのです。この神さまのみ言葉に信頼し、聞いて悟っていくことからいつも歩んでいきたいのです。