東京主僕教会の最近一か月の説教など

礼拝に来ることができなかった方、教会に関心のある方のために牧師が作成しています。どうぞ、礼拝にも来てみてください。

2017年7月17日主日礼拝説教要約

「種を撒き続ける神」マタイ13・1-9、18-23

 

 

 突然起こった九州北部の豪雨は大きな被害をもたらしました。関係者の方によれば、「5年前にも豪雨があり、覚悟していたけれども、被害は予想以上だった」というコメントもありました。

  どんなに計算して予測して頑張って作業を進めていっても、どうにもならないことが起きて、失敗することがあり、挫折することもあるのです。人間の力では絶対にコントロールできないことがあります。基本的にそれを覚悟の上で、しかしなお希望をもって作業をしていくのが農業であり、たとえ話にでてくる種をまく人なのです。

 イエス様の譬え話は、撒かれた種がその後、どうなったのか、ということに焦点があてられています。18節から23節を読むと、この譬えの解説をイエス様がされています。種を撒く人はイエス様であり、蒔かれる種はイエス様のみ言葉であり、聖書のみ言葉です。そして種が撒かれる土地はそれを受け取る人々です。まず道端に撒かれたものは、御国の言葉、イエス様の言葉を聞いても悟らない、左の耳から入った言葉が右の耳から出て行ってしまう。二番目の石だらけの場所は道端よりはよいように思えますが、問題はみ言葉が心に入っても、み言葉に根を張らないということです。御言葉を一度受け入れても、それが心にしっかりと根付かない。心のごく表面にとどまってしまう。そこを突き抜けて、根を張っていくことができない。だから、何か困難が生じてくるとつまずいてしまいます。茨の中に撒かれるのは、石だらけのところよりもよいように思えますが、問題はたとえ根をはっても、世の思い煩いや富の誘惑で、み言葉が覆われて、塞がれてしまいます。み言葉によって示されている神さまの愛、神さまの恵みを見失ってしまいます。

 しかし、このようにみてくると、道端に撒かれたもの、石だらけのところに落ちたものも、茨の中に落ちたものも、どれもが自分に思い当たるものがあり、あてはまる、と思えます。このようなことは私たちの人生に起こってきたことであり、しばしば経験することでもあります。私たちは神の畑であり、落ちる種がどんな場所、どんな心であっても、神さまは良い畑に変えてくださるのです。

 「聞いて悟る」、それは今の自分の現実をイエス様の御言葉と並べていく、それを一つに結んでいく、総合していくことです。それが「悟る」ということであり、それが神さまの導きの中で起こります。このように悟る時、み言葉を奪われることがありません。み言葉に根を張っていくことができます。艱難や迫害が起こっても、そこで信仰を失うことはありません。富の誘惑や世の思い煩いに直面しても、み言葉によって、神さまが生きて働いておられることに支えられ、神さまの働きに希望を持つことができます。それぞれの仕方で違った実り、神さまの恵みの賜物を与えられ、神さまの働きに用いられていきます。

 私たちの人生にも、教会の歩みにも、イエス様と同じように、思うにならない現実があり、失敗や挫折といえるものが起こることは避けられないことを思います。それを受け入れて念頭においていくことが必要です。けれども、耕し、成長させてくださる神さまが必ず実りを結ばせてくださるものも確かにあるのです。そこに確かな希望もあります。だからこそ、教会は失敗や挫折を恐れず、たとえ失敗しても、挫折しても、希望をもって、様々な仕方で、神さまのみ言葉の種を撒いていく働きに仕えていくことができるのです。この神さまのみ言葉に信頼し、聞いて悟っていくことからいつも歩んでいきたいのです。

 

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