東京主僕教会の最近一か月の説教など

礼拝に来ることができなかった方、教会に関心のある方のために牧師が作成しています。どうぞ、礼拝にも来てみてください。

2017年7月23日礼拝説教

「麦と毒麦」マタイ13・24-30、36-43

 

 先日、皆さんもご存知のことだと思いますが、医師の日野原重明さんが105歳で召されたことが報道されていました。日野原さんはよど号ハイジャック事件に遭遇した後、これからの人生は与えられたもの、残りの人生は人のために使おう、と思い、仕えていかれた人ですが、

 この方は希望をもつ、ビジョンをもつことが必要であり、希望によって生かされていく、ということをよく言われていたと思います。この日野原さんが心の導きとしていたものが「信仰と希望と愛、このなかで最も大いなるものは愛である」という聖句です。東京主僕教会の週報の扉、表紙にも書かれている聖句です。神から与えられている確かな愛があり、その愛に基づく希望があり、信仰がある。だからこそ、その確かな根拠に基づいて、人生において希望をもつ、ビジョンをもつことが大事である、ということができたのだと思います。人生には夢が必要であり、ビジョンが必要です。その私たちの大きなビジョンとなるのが、今日の毒麦の譬え話であり、そこに「信仰と希望と愛」を見ることができるのです。

 

 この譬え話で、農夫が良い種を蒔いた後、家に帰り、安心して、夜の間、眠っていると、敵意、悪意を持つ人がやってきて、毒麦の種を蒔いてしまいました。そして、芽がでて実ってみると、良い種の麦と一緒に、毒麦も現れたのです。農夫が毒麦に気付いた時、すでに大きくなり始めていました。この畑の主人、農夫や僕たちからすれば、事前に避けることができなかった不測の事態でした。僕達は戸惑いながら主人に問います。「旦那さま、良い種をお蒔きになったのではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう」。主人は、これは明らかに「敵の仕業だ」と答えます。そこで、「では行って抜き集めておきましょうか」と言いました。毒麦は何もよいものをもたらしません。良い種の麦の成長を阻害する可能性があります。だから、それを抜いてしまおう、というのも当然の問いです。36節から、イエス様は、この譬えで畑は世界であり、毒麦は悪い者、それを蒔いたのは神に敵対する力、悪魔であると説明されています。この世界にどうして悪いことが起こるのか。災害、戦争、殺人や暴力、憎しみ、貪欲。悪いことを行う人が栄え、善人は苦しむような現実があります。その否定することのできない悪の現実があります。なぜこの世界に悪が存在し、このようなことが起こるのか、神義論と言われるものですが、私たちには分かりません。けれども、今日の御言葉には、この悪や罪のあるこの世界の現実の中で、どう私たちが希望をもって生きることができるのかが示されています。

 

 僕は「では行って、抜き集めておきましょうか」と主人に問います。このように、毒麦を抜けばよい種の麦はよく育ち、問題は解決する。それはもっともな自然な考えにも思えます。けれども、主人にとって、それでは問題は解決しませんでした。「いや、毒麦を集める時、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい」。なぜ、この毒麦を抜いたら、良い種の麦まで引き抜いてしまう可能性があるのか。そのはっきりとした理由は語られていません。もしかしたら、その地下では毒麦の根が良い種の麦、小麦の根に絡みついていて、強引に毒麦を抜いてしまうと、良い麦まで駄目になってしまうことが明らかだったのかもしれません。あるいは、僕たちが毒麦だと思って抜いたものが実は良い麦だった、その可能性を指摘しているのかもしれません。

 

 このことは、人を見る時に、善人と悪人、よい人と悪い人を私たち人間が区別することは難しいことを示しています。考えてみると、良い種を蒔いたはずの畑に毒麦が混じっていたように、人間にも、私たちにもよいところと悪いところがあり、善と悪を併せ持っているのが現実です。その証拠に、聖書では、ペテロはイエス様を救い主だと告白した後、すぐに、「サタン、引き下がれ」と厳しく言われてしまうような事態が起きています。パウロも「自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている」。神の律法、御心を喜びながら、しかし罪の法則のとりこにされている。自分は何とみじめな存在なのか、と嘆いています。良いところもあれば悪いところもある。むしろ自分の中にある善よりは悪が大きく自分を形作っているようにも思えるのです。だとするならば、良い麦でもあると同時に悪い麦でもあり、決して、抜き取って下さい、と言えるものではないことに気づくのです。

 

 そのような者として自分を考える時に慰めとなることがあります。この譬え話では、毒麦の成長については触れられていますが、良い種が成長していくことについては詳しいことは一切触れられていないことです。良い種が育つ。それは前提であり、そのことについては主人は何も疑問を持っていない、そのことに確かな確信をもっているのです。それは主人は自分が蒔いた種を信じ、それだけではなく、この種が育つことに責任をもって配慮していくからです。

 

 この譬え話を読むと、悪い麦の存在に収穫の時まで僕はしばらく忍耐しなければなりません。しかし、誰よりも忍耐しているのは主人です。種を蒔き、そして、毒麦が見つかると、その毒麦の存在を踏まえたうえで、さらに良い麦がよく育つように配慮して育てていきます。主人は誰よりも麦の成長に注意を払って育てていきます。誰もこの主人の働き、神の働きを妨げることはできません。私たちに対する神の愛、神の働きは永遠であり、日々の歩みのなかで、たとえ天の国、神の働きを見つけることが難しくても、私たちに撒かれている救いの種は確かに成長していく、そのことがこの聖書の箇所に示されています。

 

 毒麦の譬え話とその譬え話の説明の間、31節から35節には、からし種とパン種の譬えがあります。マタイによる福音書で、イエス様がこのように毒麦の譬えの間にこのからし種とパン種の話を置いているのは、毒麦のたとえにとって、このことが大事な意味を持っているからです。良い麦でもあり、悪い麦でもある私たちを、何があっても、「からし種」や「パン種」のように、最後まで完全に責任をもって成長させて下さるのです。なされた罪でさえ、神の救いの目的に仕えるものに変えてくださる。毒麦をよい麦に変えてくださる。罪人を神の愛する子供としてくださり、私たちを導き、支え、御子イエス・キリストに似た者に造り変えてくださる。その恵みがイエス・キリストの十字架と復活によって私たちに与えられているのです。それが毒麦のたとえの根底にある大事な神さまの恵みなのです。

 

 今日のたとえ話で、僕は、毒麦が集められ焼かれていく将来、人の子であるイエス・キリストが再び来られる将来を見つめながら、主人の麦を育てていく働きに仕えていく務めを与えられています。将来、いつか苦しみをもたらす毒麦、罪と死の力が焼かれ、なくなる神の国が完成する、この希望をもって、神が今働いている愛の御業に仕えていくのです。

 

 多くの人に影響を与えてきた宗教改革マルティン・ルターの言葉として知られている「たとえ世界が明日終わるとしても、今日私はリンゴの木を植える」という有名な言葉があります。このように解説しているものがあります。私たちの将来、未来、何が起こるか分からない。けれども、それが何であっても、そのことで不安になってはいけない。それでなすべき務めからそらされてはいけない。なぜなら、イエス・キリストが主として今もこれからも終わりの時も全てを支配して下さっているからであり、主イエス・キリストこそ私たちの未来だからだというのです。私たちが背負われ、連なり、結ばれているこのイエス・キリストに、私たちの命が包まれており、私たちがどうなっていくのか、ということも示されているのです。

 

 イエス・キリストが私たちと共にいて下さいます。この主が私たちの全てを負って、私たちを愛する子供として、私たちを支え、導いてくださいます。この主に永遠に愛され、主のものとされて、この主が支配して下さっているからこそ、この主が来てくださる終わりの時に希望をもち、信仰をもって歩むことができます。このキリストのゆえに、たとえ明日世界の終わりが来ようとも、神の国の到来を信じて、今日リンゴの木を植え、なすべき務めを果たしていくのです。ここに死で終わることのない人生の大きなビジョンがあります。信仰と希望と愛、この中で最も大いなるものは愛である。この聖句がこのビジョンに溢れています。このことを心の導きとして私たちも歩んでいきたいと思います。