東京主僕教会の最近一か月の説教など

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2017年7月30日礼拝説教

「エレミヤの召命」エレミヤ1・1-10          2017.7.30

 

 今日の7月最後の礼拝から9月最初の創立記念礼拝までしばらくエレミヤ書の聖書のみ言葉から聞いていきます。今日の1章の始まりには預言者エレミヤの召命と呼ばれる出来事が記されています。召命とは神から何か特別な使命を与えられ、

  その使命に自分を賭けていくことですが、エレミヤは神さまから人々に告げるようにと預かった言葉をそのまま人々に語っていく使命を与えられました。私たち一人一人誰一人例外なく神さまから使命を与えられて生かされています。

 エレミヤがその自分に対する召命を受けたのは、紀元前627年頃のことでした。エルサレムから北東へ5キロほどにあったアナトテの村で祭司の家に育ったエレミヤですが、この時、25歳あるいは18歳、最近の研究では12歳だったともいわれています。しかしいずれにしても、このエレミヤが見ていた世界は決して平穏・平和な世界ではなく、激動の世界でした。

 当時の中近東の世界の覇権を握っていた大国のアッシリア帝国が滅び、新しくバビロニア帝国が覇権を握っていました。小国であった北王国のイスラエルアッシリア帝国によって滅亡し、エレミヤがいた南王国ユダもその脅威にさらされます。エレミヤが召命を受けた40年後にはついには旧約聖書の歴史上もっとも悲惨なバビロン捕囚という出来事が起こります。その滅びゆくさまをつぶさにみて体験していったのがエレミヤです。

 その時代に生きる人々が聞きたくない滅亡を告げる預言の言葉を語り、そのことは人々が神に背いた結果であると神の御心を告げていったのです。人々はこのエレミヤの言葉を理解せず、売国奴、裏切り者として迫害し、エレミヤは悲劇的な生涯を歩んでいきました。

 エレミヤは「涙の預言者」、「悲しみの預言者」と呼ばれます。シャガールという人が描いた「エレミヤの嘆き」という絵画が有名です。エレミヤ書には嘆きを記す言葉が多くでてきますが、シャガールにとって、エレミヤを思い浮かべる時、嘆きながら生涯を送った人でした。自分の全ての思いを神さまに打ち明け、訴えていくエレミヤは、人間らしい人間だということで親しまれてきました。

 私たちも教会へと導かれ、聖書を通して、神さまを知り、信じて歩むように招かれています。けれども、様々なことが起こってくる現実の中で、神への信仰と疑いの中で引き裂かれる時があります。嘆き、悲しみを与えられる時があります。けれども、その私たちを支え、生かしていくみ言葉が今日のみ言葉なのです。

 今日の聖書のみ言葉はエレミヤがすぐにぱっと全てを理解して書き留められたみ言葉ではありません。その後の生涯の中で繰り返し思い出し、思いめぐらし、その意味を明確にし深め、支えられていった体験です。

 けれども、そのことが「主の言葉がわたしに臨んだ」というみ言葉から始まります。そのことは、自分の意志で、自分の思いから神さまに従っているのではなく、この神さまに招かれて全てが始まっているということ、神さまがこの道を始めてくださった、この神のみ言葉が自分の人生に実現していくのだ、と思い返し、そのことを時々に体験しながら、そのことに支えられてきたことを示しています。

 エレミヤがまず聞いた言葉は、「わたしはあなたを母の胎内に造る前から、あなたを知っていた」というものでした。創造の神、命をつくり与えてくださる神が、エレミヤの肉体が生まれる前から知っていた。知るということは選ぶということです。神さまはエレミヤが生まれる前からエレミヤを愛し、選んでおられました。「聖別する」とは神さまとの特別な関わりの中で仕えるものとされていくことです。そして諸国民、全ての人々に働く預言者として立てた、任命したと言われます。考えてみると、これから任命する、というのではなく、すでにそのように決めて立てている、というのです。そのことを神さまは責任をもって始めておられるのです。

 この箇所を読む時に、自分はエレミヤではないし、預言者ではないから無関係だと思えるかもしれません。しかし、確かなことは、私たち一人一人は神さまから招かれ、神さまを信じ、従っていくように招かれています。神さまから一人一人愛され、選ばれ、神さまを信じて、従っていくようにされていること、そして一人一人の仕方で神さまと人に仕える器とされている、ということです。そのように神さまに招かれているということです。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」(ヨハネ15)。多くの人を支えてきたイエス様のみ言葉です。私たちを愛し、選び、招かれたイエス・キリストは、何があっても責任をもって私たちを導き、神さまの愛する子供として従っていく歩みを完成させてくださいます。神が私たちの人生を責任をもって導いてくださるからこそ、今日のみ言葉は私たちの支えとなるのです。

 しかし、その時、エレミヤは言いました。「ああ、わが主なる神よ。わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者にすぎませんから」。若いエレミヤは公の席で話をしたことがなかったかもしれません。話し方さえ分からない。神さまは全世界に働いておられる、しかしこの全世界の人々に預言していくことなど、とてもできることではない。年齢も若いし、そのような才能も力もない、あまりにも自分は無力だと思ったのです。それももっともなことです。

 けれども、今回気がついたのは、エレミヤは自分の力や能力に頼って務めを果たすのだと思っていたから、無力だと思った、ということです。自分の持っている能力、力で神さまから与えられている務めを果たそうとする時、その務めを担うことはできません。罪人である人間が神に代わって語る務めを担うことはできません。私たち一人一人、神さまから与えられている使命、務めを担うために、神に仕えて歩んでいくために、神の栄光のために仕えていく時に、確かに自分の技術や能力を磨かなければなりませんが、しかし、究極的に、自分の能力や力ではなく、神のみ言葉の恵みと力を信頼し、そこに頼らなくてはいけないのです。その私たちを神さまは用いてくださるのです。

 だから、「若者にすぎないと言ってはいけない」とやさしく言われた神は、「わたしがあなたを、誰のところへ遣わそうとも、行って、わたしが命じることをすべて語れ」と言われます。この神さまのみ言葉に頼ることによって、私たちを生かされ、支えられ、力を与えられていくのです。

 この言葉は命令形で語られていますが、現在形で訳されることもあります。「なぜなら、まさしくわたしが送り出すところ、どこへでもあなたは行くでしょう。わたしがあなたに伝えるすべてのことを、あなたは語るであろう」。この文章からわかることは、神さまがエレミヤに責任をもって、このみ言葉を実現し、神さまが働かれていくということです。エレミヤは神さまに用いられる器であり、私たちも神さまに用いられる器なのです。どんなに無力だ、どんなに弱い人間だと思えても、神さまは用いてくださいます。神さまに仕えていく恵みを豊かに与えられています。「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」。私たちもこの神さまのみ言葉の恵みに信頼していく時、神の力が弱さの中で十分に発揮されるのです。

 その私たちに神さまは約束を与えて下さっています。「恐れるな。わたしがあなたと共にいて、必ずあなたを救い出す」。わたしたちの人生には「ああ、主なる神よ」と叫ばざるを得ない、嘆かざるを得ない時があるかもしれません。しかし、その時、「恐れることはない。わたしがあなたと共にいる」、この恵みに支えられ、神に用いられ乗り越えていくことができます。私たちのの危機、人生のピンチは神の働かれる好機、チャンスとなり、神が働かれる時としてとらえていく時、前進させてくださるのです。

 神さまはエレミヤの口に手を伸ばして触れて語るべき言葉を授けます。その言葉は神さまの裁きを告げる厳しい言葉でした。「抜き、壊し、滅ぼし、破壊する」。確かに罪は裁かれなければなりません。けれども、それには確かな目的があります。「建て、植えるために」。神さまの私たちに対する目的は決して破壊し、滅ぼすことではありません。建て、植えるために。何があっても豊かな命を回復し、実現すること、それが私たちに対する神さまの大きな最終的な目的なのです。

 だから、神さまは御子イエス・キリストの十字架において私たちの罪を裁き、復活によって、私たちに永遠の命、新しい命と希望を与えて下さいました。神さまは私たちの罪と死を担ってくださったイエス・キリストの十字架において、「抜き、壊し、滅ぼし、破壊する」ことを実現し、イエス・キリストの復活において、「建て、植える」こと、豊かな命を私たちと全てのものに回復するすばらしい御業を始めて下さいました。その神さまの大きな目的が常に今も神さまの私たちに対する御業を形作っています。

 だからこそ、「神を愛する者たち、つまり御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています」と、私たちは希望を持って、人生を歩んでいくことができるのです。今朝、私たちもこのエレミヤに対する神のみ言葉を自分に対する神のみ言葉として携え、希望をもって歩んでいきたいのです。