東京主僕教会の最近一か月の説教など

礼拝に来ることができなかった方、教会に関心のある方のために牧師が作成しています。どうぞ、礼拝にも来てみてください。

2017年7月30日礼拝説教要約

「エレミヤの召命」エレミヤ1・1-10

 

 エレミヤは神さまから人々に告げるようにと預かった言葉をそのまま人々に語っていく使命を与えられました。私たち一人一人誰一人例外なく神さまから使命を与えられて生かされています。

 エレミヤがまず聞いた言葉は、「わたしはあなたを母の胎内に造る前から、あなたを知っていた」というものでした。創造の神、命をつくり与えてくださる神が、エレミヤの肉体が生まれる前から知っていた。知るということは選ぶということです。神さまはエレミヤが生まれる前からエレミヤを愛し、選んでおられました。「聖別する」とは神さまとの特別な関わりの中で仕えるものとされていくことです。そして諸国民、全ての人々に働く預言者として立てた、任命したと言われます。考えてみると、これから任命する、というのではなく、すでにそのように決めて立てている、というのです。そのことを神さまは責任をもって始めておられるのです。

 「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」(ヨハネ15)。多くの人を支えてきたイエス様のみ言葉です。私たちを愛し、選び、招かれたイエス・キリストは、責任をもって私たちを導き、神さまの愛する子供として従っていく歩みを完成させてくださいます。神が私たちの人生を責任をもって導いてくださるからこそ、今日のみ言葉は私たちの支えとなるのです。
 しかし、その時、エレミヤは言いました。「ああ、わが主なる神よ。わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者にすぎませんから」。年齢も若いし、そのような才能も力もない、あまりにも自分は無力だと思ったのです。それももっともなことです。けれども、自分の力や能力に頼って務めを果たす、使命に生きるのだと思う時、その務めを担うことはできません。確かに自分の技術や能力を磨かなければなりませんが、しかし、究極的に、自分の能力や力ではなく、神のみ言葉の恵みと力に頼らなくてはいけないのです。
 だから、「若者にすぎないと言ってはいけない」とやさしく言われた神は、「わたしがあなたを、誰のところへ遣わそうとも、行って、わたしが命じることをすべて語れ」と言われます。この神さまのみ言葉に頼ることが私たちを支え、生かしていきます。そして、このことを責任をもって神さまは実現してくださいます。私たちも神さまに用いられる器なのです。どんなに無力だ、どんなに弱い人間だと思えても、神さまは用いてくださいます。神さまに仕えていく恵みを豊かに与えられています。「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」。私たちもこの神さまのみ言葉の恵みに信頼していく時、神の力が弱さの中で十分に発揮されるのです。
その私たちにも神さまは「恐れるな。わたしがあなたと共にいて、必ずあなたを救い出す」と約束を与え、神さまが危機の時にも働いてくださり、神に用いられ乗り越えていくことができます。
 確かに罪は裁かれなければなりません。けれども、神さまは私たちの罪と死を担ってくださったイエス・キリストの十字架において、「抜き、壊し、滅ぼし、破壊する」ことを実現し、イエス・キリストの復活において、「建て、植える」こと、豊かな命を私たちと全てのものに回復するすばらしい御業を始めて下さいました。それが常に神さまの私たちに対する御業を形作っています。
 だからこそ、「神を愛する者たち、つまり御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています」と、私たちは希望を持って、人生を歩んでいくことができるのです。