東京主僕教会の最近一か月の説教など

礼拝に来ることができなかった方、教会に関心のある方のために牧師が作成しています。どうぞ、礼拝にも来てみてください。

2017年8月6日礼拝説教

「生ける水の源」エレミヤ2・4-13          

 

 私は3年程前から日本キリスト教会の出版局委員会に関わってきましたが、出版局が編集発行している『福音時報』ではこの2月から「み言葉に照らされて」というコーナーが始まりました。

  牧師ではなく、信徒の方が中心に執筆していくコーナーも必要であり、希望と力を与えられるのではないかということで始まりました。私の好きな聖句、愛唱聖句というようにどこの教会でも書かれているものかもしれませんが、これまで20代から90代までの方々が執筆して下さっています。いつも驚かされるのは、実に様々な世代の人々が遠い昔に書かれた聖書から力を与えられていること、遠い昔に違う場所で書かれた聖書が今読む人々に力を与えているということです。それは聖書が普遍的な内容を持つ、ということだけではなく、歴史を貫く神の真実、そして歴史を貫く人間の真実が聖書には語られているからです。


 今日のエレミヤ書の預言の言葉はイスラエルの北と南、イスラエルの全体に向けて語られています。しかし、2600年前、エレミヤが預言を始めた頃には、すでに北のイスラエルの国が滅んでから100年程経過していて、南ユダの国は滅亡への道を歩んでいました。エレミヤは南ユダの現実を見据えながら、過去を振り返り、未来の希望を語るのです。7節で「お前たち」と目の前の現実に生きる人々を見つめながら、5節で「お前たちの先祖は」と過去を振り返り、そして9節「子孫たち」と将来を見つめていきます。歴史を貫いて神の真実、人間の現実が語られているからこそ、聖書の言葉は私たちの心に訴えかけてくるのです。


 今日の聖書の箇所は、これまで私が読んできた聖書のみ言葉の中で心に残る印象的な言葉の一つです。2章13節の「こわれた水溜め」という言葉です。パレスチナの南ユダの国の人々は「生ける水の源であるわたし(神)を捨てて、無用の水溜めを掘った。水をためることのできない こわれた水溜めを」と言われています。なぜこの言葉が心に残るのでしょうか。考えてみると、人生にはこわれた水溜め、役にたたない水溜めを掘っているように感じることがあるからではないでしょうか。あるいは何かを一生懸命に求めながら、結局役に立たない水溜めを掘っていた、ということに後から気づくこともよくあるからではないでしょうか。そして、どのように生きるべきか、何かの選択が迫られた時に、その判断の基準として、今壊れた水溜を掘っていないかどうか、ということも、大事な人生の考え方だと思わせられるのです。


 けれども、イスラエルの人々が実際の生活の中で役に立たない水溜めを作っていたということではありません。むしろ反対にそれは愚かであることをよく知っていたのです。「生ける水の源」、「水溜め」という言葉は、パレスチナの風土、生活の状況に照らして言われている言葉です。生ける水とは泉、流れる水のことですが、パレスチナ、特にエレミヤのいた南ユダでは、雨が少なく、泉は本当に貴重なものとして大切にされていました。雨が少ないので、人々はやむをえず水ためを掘って、雨水などをためて用いていたのです。でも、この水はすぐに蒸発してしまいます。腐りやすいし飲むには適していないのです。だから、だから生きた水、泉を大事にしたのです。当時のパレスチナの人であれば、壊れた、水漏れのする水溜めを掘ること、泉の生ける水があるのに、それを捨てて壊れた水ためを掘ってそれに頼っていること、それは愚かなことを知っていたのです。


 それではエレミヤは何をさして人々が壊れた水溜を掘っていると言うのでしょうか。そのことを示す言葉が、今日のもう一つ印象的な言葉である「後を追う」という言葉です。5節で「むなしいものの後を追う」。8節で「バアルによって預言し、助けにならぬものの後を追った」。繰り返しでてきます。バアルとは当時のイスラエルの人々がいたカナンの地にあった宗教の神であり、豊穣をもたらす神としてまつられていた神でした。金や銀、木や石で作った神の像が人間に幸せや不幸をもたらす力をもつものとして考えられ、拝まれたのです。かつては神さまに従って、神さまの後を追っていたのに、バアルの神々に従ってしまったのです。


 出エジプト記の時代、神さまはエジプトの奴隷であったイスラエルの先祖の人たちを、モーセを遣わして助け出し、シナイの山で、彼らの神となる約束、契約をされました。それに答え、イスラエルの人々も神さまを愛し、神さまに従っていくことを約束しました。旧約聖書を読む時の大事な鍵となり、光を与えていくのが神さまと人々が結んだ契約です。神さまはその契約の約束を守り、四十年にわたる荒野の旅を導き、最後に約束の地に入らせ、この時に至るまで導いてこられました。けれども、人々は「尋ねもしなかった」という言葉が繰り返されるように、カナンの地を得た人々は豊かな生活を手にしたとたん、神さまに尋ねもせず、神さまを忘れ、命のないバアルの神々の後を追っていったのです。


 それが背景にあって、この言葉が語られます。「ヤコブの家よ、イスラエルの家のすべての部族よ。主の言葉を聞け。主はこう言われる。お前たちの先祖はわたしにどんな落ち度があったので、遠く離れていったのか」。神さまが法廷でイスラエルの人々を訴え、告発していくような厳しい言葉です。落ち度とは契約に違反した行動をさしていますが、神さまの側には何の落ち度もない、落ち度があるのは先祖たちであることを明らかにしています。けれども、落ち度を問題にし、罪を明らかにする、そして、それに対する罰が確定して終わるのが普通の裁判ですが、その普通の裁判と違うのは、神様が告発する、と言いながら、この後を読んでいくと出てくるように、神さまは人々に悔い改めを求めています。神さまのもとに立ち返るように、帰ってくることをどこまでも求めているのです。人々がどんなに背いて離れても神さまは愛されているからです。


 「主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちがどの民よりも多かったからではない」。このみ言葉にあるように、神がどの民よりも貧弱であったイスラエルに心ひかれたことが神さまと人々の間の契約の始まりです。エレミヤ書を読む時に、念頭においていただきたいのは、神さまがどこまでも無条件に愛されているからこそ、離れていくことを嘆き、戻るように訴えるのです。他の国の違う宗教であっても、人はその神に従っていくのにどうしてそうではないのか、と嘆くのです。神さまの愛に感謝し、神のものとして生きる。けれども、イスラエルの人々に、この神の愛の交わりがなくなってしまいました。そのことを神さまは悲しみ嘆かれるのです。イスラエルの人々も、私たち一人一人も神さまに愛されて命を与えられている一人一人であり、神さまとの愛の交わりの中で生きるように造られているのです。


 けれども、「彼らはむなしいものの後を追い、むなしいものとなってしまった」のです。むなしいものを追うことは自らむなしいものとなること。むなしいという言葉は「価値がない」と訳されることがあります。神さまとの愛の交わりのないところでは、自分自身がむなしいもの、価値のないものとなってしまう。この地上においてどれほどのものをもっていても、どんなに富があっても、神さまの愛から離れるならば、存在自体が空しいものとなってしまう。それが歴史を貫く人間の真実です。「あなたは、食べた物そのもの」という言葉があります。何を食べるのか、何を拝み、何を信じ、何を愛するのか。それが私たちを形成していきます。むなしいものを食べるのなら、むなしいものとなってしまうのです。


 しかし、空しいということはどういう意味なのでしょうか。そのことに大きな光を与えるのが11節の後半に「おのが栄光を、助けにならぬものと取り替え」る、という言葉です。むなしいと言われたことと対比して語られているのが「栄光」という言葉ですが、この「栄光」はイスラエルの神を指すだけではありません。その神がイスラエルに与え、私たちに与えてくださる栄光です。真の神を神としていくことによって、私たちは栄光ある人間とされるのです。昔の教父のエイレナイオスが言った有名な言葉があります。「生きている人間こそ神の栄光である」。神との正しい関係こそ、人間が真に生きるために最も必要なものであり、神によって生かされている人間として生きることが神の栄光となる、という言葉です。神さまによって愛されている者として、神を愛し、人を愛していく。あらゆる命を愛し、育んでいく。それが神の栄光となるのです。そこに本当の人生の意味があり、この人生は決してむなしいものではありません。


 私たちを愛して下さっている神さまは、私たちが壊れた水溜めを掘って、空しいものとなることをお望みになりません。だから、イエス様によって、新しい契約を結び、ご自分を尋ね求めもしない者をそのままに放っておくのではなく、迷子になった羊を探し出す羊飼いとして、自分を捨てた者を訪れ、永遠の命に至る水を与えてくださるのです。生きた水を与えてくださるのはイエス様であり、イエス様は「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない」と約束してくださいました。イエス様のみ言葉、聖書のみ言葉を通して、私たちに聖霊によって永遠の命を与え、生ける水によって生かされていくことができるのです。


 今日の聖書の箇所で、神さまが私たちに望んでおられること、それは神さまに尋ねること、尋ね求めることです。人々が荒野を旅していた時、「荒涼とした、穴だらけの地、乾き切った、暗黒の地」としか思えない場所を旅しました。けれども、神を尋ね求めていく時、「あなたのまとう着物は古びず、足がはれることもなかった」のです。生ける水の源である神が共に歩んでくださる旅であることがその都度知っていったからです。神さまを尋ね求める時、わたしたちはその都度神を発見します。尋ね求めることによって、神さまが共にいてくださること、神さまの思い、神さまの愛が私たちの思いをはるかにこえて私たちに及んで包んでいること、決して神さまの恵みにおちどはなく、神の恵みは十分なこと、弱さの中で神の恵みは十分に与えられていることを知るのです。それが歴史を貫く神の真実なのです。


 神さまは私たち一人一人を愛してくださっています。この神を信じ、より頼んでいく時、壊れた水溜を掘ることなく歩んでいくことができます。私たちは礼拝を通してキリストに出会い、神の生ける水をいただいていきたいと思います。