東京主僕教会の最近一か月の説教など

礼拝に来ることができなかった方、教会に関心のある方のために牧師が作成しています。どうぞ、礼拝にも来てみてください。

2017年8月6日礼拝説教要約

「生ける水の源」エレミヤ2・4-13

  

 13節の「こわれた水溜めを掘っている」という言葉は場所や時代をこえて、人生の歩み、生き方を見つめ直す視点を与えてきました。今、こわれた水溜めを掘っているように生きていないか、と。自分は、こわれた水溜めを掘っているのではないかと思える時があるのです。聖書は歴史を貫く神の真実を語り、そして歴史を貫く人間の真実を語ります。

  けれどもイスラエルの人々が実際の生活の中で役に立たない水溜めを作っていたということではありません。パレスチナ、特にエレミヤのいた南ユダでは、雨が少なく、泉は本当に貴重なものとして大切にされていました。雨が少ないので、人々はやむをえず水ためを掘って、雨水などをためて用いていたのです。でもこの水はすぐに蒸発してしまいます。腐りやすいし飲むには適していません。だから生きた水、泉を大事にしたのです。それを捨てて壊れた水ためを掘ってそれに頼っていること、それが愚かであることを知っていたはずなのです。

 エレミヤが壊れた水溜を掘っていると言っているのは、人々がカナンの土地の偶像の神、豊穣をもたらす神を拝んでいたことです。何かの神の像が人間に幸せや不幸をもたらす力をもつものとして考えられ、拝まれたのです。神さまとの契約を捨て、人々は神さまから離れていったのです。けれども、神さまは人々がどんなに背いても、どんなに離れても、神さまのもとに立ち返るよう、帰ってくることを求めています。神さまは無条件に愛されているからこそ、離れていくことを嘆き、戻るように訴えるのです。私たち一人一人も神さまに愛されて命を与えられています。神さまと共に生き、神さまとの愛の交わりの中で生きるように造られているのです。

 むなしいものを追うことは自らむなしいものとなることです。神さまとの愛の交わりのないところでは、自分自身がむなしいもの、価値のないものとなってしまいます。それも歴史を貫く人間の真実です。けれども、そのような私たちに神さまはご自分が与える「栄光」に生きるように招いてくださいます。「生きている人間こそ神の栄光である」(エイレナイオス)。神によって生かされている人間として生きる。神さまによって愛されている者として、神を愛し、人を愛していく。あらゆる命を愛し、育んでいく。それが神の栄光となります。その人生は決してむなしくないのです。

 神さまは私たちが壊れた水溜めを掘って、空しいものとなることをお望みになりません。だから、迷子になった羊を探し出す羊飼いのように、自分を尋ね求めない者、自分を捨てた者を訪れ、永遠の命に至る水をイエス様によって与えてくださっていました。荒れ野のような人生の旅路の中で神さまを尋ね求める時、神さまが共にいて、神の愛が私たちの思いをはるかにこえて私たちに及んで包んでいること、決して神の恵みに落ち度はなく、神の恵みは十分に与えられていることを知るのです。それが歴史を貫く神の真実です。この神を信じ、礼拝し、より頼んでいく時、こわれた水溜を掘ることなく歩んでいくことができるのです。