東京主僕教会の最近一か月の説教など

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2017年8月13日主日礼拝説教

「主の言葉が燃え上がる」エレミヤ20・7-9(13)     

          

 先日の日曜日の8月6日は72年前、広島に原爆が落とされた日であり、11日は長崎に原爆が落とされた日でした。そして15日には終戦記念日を迎えます。そして今、戦争の危機的な状況に包まれています。8月は戦争と平和について考えざるを得ません。どうして戦争が起こるのか。経済的な問題も絡む複雑な問題ですが、

  その一つは憎しみの連鎖、復讐の応酬によって争い、戦争が起きるということです。それが歴史の示す現実です。そのことは、人を憎む思い、仕返しと復讐を求める思いが人間の心の中に抜き難くあり、それが人間の現実であり、人間は復讐をしたがる生き物であることを示しています。旧約聖書には人間の赤裸々な現実、復讐と仕返しを求める思いが隠さずに書かれています。そのことは私たちの中で起こっていること、私たち人間の現実に聖書がどれほど通じているかを示しています。

 詩編には復讐を求める思いが多くでてきますが、このエレミヤ書にも出てきます。20章12節「わたしに見させてください。あなたが彼らに復讐されるのを」。預言者エレミヤの言葉です。預言者自身が復讐、仕返しをしたいという思いを持たざるを得ませんでした。けれども、覚えていただきたいことは、エレミヤ自身がこのように求め、願いながら、しかし実際に復讐を自分の手でしたことはないということです。今日のエレミヤ書のみ言葉には、復讐を求める思いを持たざるを得ない私たちが、どのように平和の道を歩んでいくことができるのか、その道が示されているのです。

 エレミヤは2600年前、10代後半、20代の若さで神さまの御心を人々に諸国民に告げていく預言者として召し出されました。その時代はエレミヤのいる南ユダの国がバビロニア帝国の脅威にさらされ、滅んでいく時代でした。しかし、そのエレミヤの心を悩ましたのは、この時代に生きる人々に、大丈夫だ、平和だ、安心しなさい、と告げるのではなく、神の徹底的な裁き・審判を告げるように言われたことでした。しかも、そのことを人々が受け入れず、無視され、反対に売国奴として裁かれ、迫害されていったことです。友達や家族さえ彼を離れ、彼を恥じ、毒殺しようとしたのです。現にこの箇所の直前では、神殿の最高監督者である祭司パシュフルが彼を拘留しています。それに対して、エレミヤは神の厳しい裁きの言葉を告げています。その厳しい裁きを語った後、エレミヤの本心が現れたのが今日のみ言葉です。

 これまでの20章に至るところまでに幾つかエレミヤの嘆き、告白が語られていますが、この20章が一番有名であり、頂点と言えます。エレミヤは決して誇り高く、神経の太い人だったのではありません。ことあるごとに自分の弱さ、無力さ、心の醜さをよく痛感した人だったのです。同胞の愛する人々に神の厳しい裁きを告げなくてはいけない。しかも、人々は受け入れず、自分を恥として呪っている。それはエレミヤにとって、14節以降にあるように、自分の生まれた日、自分のことを呪う程辛いことでした。このような仕事は決してエレミヤが願っていたことではありません。だから、神さまが最初にエレミヤを召し出された時のことを思い出し、「あなたがわたしを惑わし、わたしは惑わされて」、私より力の強い「あなたに捕らえられました」と訴えています。あなたはわたしをだました、力ずくで意のままにしたのだ、と怒り、嘆いて、その思いを告白しているのです。あなたがこれを語れと言われたことを語ってきたせいで、「わたしは一日中笑い者にされ、人が皆、わたしをあざけっているのだ」と辛い思いを訴えています。エレミヤは逃げ場のない大変な状況に追い込まれていることが8節と9節に示されています。

 語っても恥を受けるし、語らなくても負けるのです。どちらをとっても自分は負けてしまう、大変なジレンマの中に置かれています。8節「わたしが語ろうとすれば、それは」人々に対する「嘆き」の言葉「となり」、人々に「不法だ、暴力だ」と叫ばずにはいられません。この「主の言葉のゆえに、わたしは一日中、恥とそしりを受けねばなりません」。神さまが目に見える仕方で助けてくれるということが起こらない。けれども、反対に、もうやめよう、「主の名を口にすまい、もうその名によって語るまい」、沈黙しよう、そう「思っても」、目に見える慰めは与えられない。「主の言葉が、わたしの心の中、骨の中に閉じ込められて、火のように燃え上がります」。主の言葉は「押さえつけておこうとして」もできず、語らざるを得ないのです。主の言葉、神の言葉との戦いの中で「わたしは疲れ果てました。わたしの負けです」。どんなに抵抗しても、神の言葉に圧倒され、勝利され、打ち負かされてしまう。神の前に屈服し、自分を明け渡していくエレミヤの姿があります。

 エレミヤは神の言葉は必ず実現することを経験していきました。神の言葉は生きて働いている。神の言葉、神の御心は必ず実現し、勝利することを経験していきました。この9節のみ言葉は多くの信仰者、伝道者の愛唱聖句となって支えてきました。この神の言葉の力に生かされている。それを実感してきたのです。神の言葉が必ず勝利する。そこに神の恵み、神の愛の勝利を見ることができます。どんなに弱い自分だ、どんなに罪深い自分だと思えても、神さまがその自分を愛し、捕らえ、赦し、悔い改めを起こし、生かし、用いられていく神の言葉、神の恵みの勝利の圧倒的な力を経験してきたのです。その恵みに私たちも捕らえられているのです。

 どんなにしても押さえつけることのできない神の言葉の力。確かなことはそれがイエス・キリストに現れているということです。神の言葉はその目的を果たさず、空しく神のもとに帰ることはありません。キリストにおいて、神の言葉が肉となり、私たちの間に宿られました。そのキリストを、死でさえも沈黙させることはできず、墓でさえ抑えつけることができませんでした。そうして、神さまはかつてエレミヤを通して語られた言葉、「抜き、壊し、滅ぼし、破壊する」、この罪に対するこの神の裁きをキリストの十字架において実現し、「建て、植えるために」、罪を赦し新しい命を与え、生かす、このことをキリストの復活によって実現して下さったのです。

 このキリストの恵みに生かされた一人にパウロがいます。善をなそうとする自分にいつも悪がつきまとっている、「わたしはなんとみじめな存在なのか」と嘆く。けれどもイエス・キリスト、この神の言葉の力に捕らえられ、圧倒され、「わたしは確信しています。どんなものも、わたしたちの主イエス・キリストによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」。この神の愛に捕らえられ、駆り立てられて、伝えていかざるを得ません。罪と死の力に勝利する神の恵みの勝利。私たちを愛し、捕らえ、私たちを裁き、癒し、生かしていく神の愛の勝利。この神の言葉の勝利に私たちは包まれています。この神の言葉、イエス・キリストが、私たちとこの世界に働いています。だからこそ、この世界と私たちに希望があり、「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」、このみ言葉を信じることができるのです。

 この神の言葉に捕らえられたエレミヤをとりまく現実は変わりません。けれども、絶望せざるを得ない現実の中で、このエレミヤが支えられ、励まされていくのは、11節「しかし、主は恐るべき勇士として私と共にいます」。私たちの嘆きや訴えを聞いて下さっている神が共にいてくださる、神はどこまでも私たちの味方である、ということです。自分はこの神のものであり、神の愛の御手の中にある。神は慈しみ深い神であり、必ず救いを完成し、ご自分の正義を実現してくださる。絶望の中で、嘆きを訴えつつ、この神からもたらされる希望を示され、復讐し、仕返しをしたいという思いを打ち明けながら、その思いを神に委ね、神を賛美し、仕えていくことができたのです。

 エレミヤの嘆きは神の嘆きであり、エレミヤの嘆きを神はご自分のものとして共にいてくださいます。神の嘆きだからこそ現実を突き破る力があるのです。嘆きには現実を突き破り、前進していく力があります。エレミヤの嘆きの祈りは詩編の嘆きの祈りと構造的に似ています。詩編の祈りにあるイスラエルの嘆きの祈りをエレミヤは知っていたのかもしれません。旧約聖書の現代の専門家であるブルッゲマンは、「詩編の祈りの言葉は、この言葉を自分のものとして祈っていくことによって、まだ存在しないものを存在へと呼び出していくのだ」と言っています。その言葉の現実に生きる者に変えられていくのです。詩編の祈り、エレミヤの祈りを自分の祈りとしていく時、絶望の中にある者が言葉を与えられ、神に嘆きながら、神のみから与えられる希望に生かされていくのです。絶望と嘆きの中にある者が現実を突き破り、現状を超えてもたらされる神の希望を示され、神に仕える者、主の僕として前進していく力を与えられていく。それがエレミヤだったのです。

 平和の歩みは自分の思いをどんなものであっても、それを言葉にして、神に訴えて打ちあけて祈っていくことから始まります。その時、共にいましたもう神の恵みの力、神の言葉の力に導かれていくことができるのです。神を愛し、人を愛するものとして変えられていきます。神のみがもたらすことができる神の希望を与えられていきます。その道が私たちに開かれているのです。今、神の恵み、神の愛の勝利の力、神の言葉の勝利の力に包まれている自分であることを覚えながら、神に訴え、祈りつつ、神に仕えていく道を歩んでいきたいのです。