東京主僕教会の最近一か月の説教など

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2017年8月20日礼拝説教

「あなたたちのための計画」エレミヤ29・10-14   

          

 今歌っていただいた「勝利をのぞみ」、We shall overcomeという讃美歌は、人種差別の問題で平和のために闘ったマーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師の公民権運動でテーマソングのように使われ、

 

 世界を変えた曲として紹介されることもあります。現在のアメリカ長老教会の讃美歌集にもあり、アメリカでも世界の教会でも大事にされている讃美歌です。キング牧師はこの歌に感銘を受け、「We shall overcome」(私たちは打ち勝つ)という言葉を説教や演説で繰り返し引用しました。その後必ず正義が実現すると語りました。

 その確信は「I have a dream」というスピーチによく現れています。「今日の、そして明日の困難に直面してはいても、私にはなお夢がある」。「将来、全ての人間が平等である」ことが実現され、子供たちが黒人も白人も互いに手にとりあって生きる時代が来ると確信しています。そしてスピーチの後半にこの確信の根拠が出てきます。「私には夢がある。それは、いつの日か、『谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。主の栄光がこうして現れるのを、肉なる者は共に見る』、このイザヤ書の言葉を引用して、「これが私たちの希望である」、「この信仰があれば、絶望の石から希望の石を切り出すことができる」と言っています。

 このイザヤ書の言葉はバビロン捕囚の時代に人々を導く神さまの約束を告げたものですが、今日のエレミヤ書の御言葉も、バビロン捕囚の時代に与えられた神さまの約束の言葉です。捕囚の時代に与えられた神さまの約束の言葉は時代を超えて、希望を与え、生きる力を与えてきたのです。

 しかし、捕囚の出来事は旧約聖書イスラエルの歴史の中でかつてない最悪の出来事だったと言われています。預言者エレミヤが活動したのは今から2600年程も昔、エレミヤのいた南ユダの国が新バビロニア帝国によって滅んでいった時代でした。この直前の29章1節を読むと、そのバビロニアの王ネブカドネツァル2世がエルサレムの生き残った人々、その中で特に指導的な立場にあった長老、祭司、預言者たちを始めとして、多くの主だった人々を遠くバビロニアの首都バビロンへ連れ去ったことが分かります。戦争で家族を失い、家を失った人々を、それまで住み慣れていたエルサレムから引き離し、神殿、故郷から引き離せば、その精神と生活の中心、拠り所を失い、おとなしくバビロニアに仕えるだろう、と思われたのです。

 けれども、エレミヤはエルサレムに残されていました。エレミヤはバビロニアだけでなくイスラエルの人々からも、彼は一緒に連れていくには及ばない、その必要のない人物であり、重要ではない人物だ、と軽んじられていたのです。私たちの人生に起こる、悪いと思える全ての出来事が神さまの裁き、怒りによって起こっていると考えないように注意しなければなりません。けれども、エレミヤは、神さまに責任を負っている契約の民イスラエルの捕囚の出来事については、神に信頼せず、神から離れていったから起こったのだ、と徹底的に告げたのです。だから、人々から嫌われていたのです。バビロンに人々が連れ去られて2,3年経過した時に、エレミヤが書いたのがこの29章の手紙でした。

 このエレミヤの手紙の大きな特徴は、バビロンでの捕囚生活が長引くことを前提としているということです。5節からその長引く捕囚を前提として、人々に落ち着いた生活をし、木々を植え、畑を耕し、収穫を確保するように。その地の人々を受け入れ、結婚し家庭をもったり、人々を大事にして平和に暮らすように勧めています。そして平和に暮らすためには、バビロニアのために祈るようにさえ勧めています。

 しかし、このようにわざわざエレミヤが手紙を書いているのは、今のバビロンにいる人々の現実が正反対の現実の中にあったからです。8節と9節に「偽預言者達に騙されてはならない」、「偽りの預言をしているから」とあります。バビロンにいる偽りの預言者たちは、根拠もないのに、すぐに帰れるから安心しなさい、と勧めていました。この偽預言者の言葉は、バビロンでの生活に慣れていなかった人々にとってありがたい言葉でした。

 今あろうことか、自分たちを苦しめ傷つけた憎むべき敵に囲まれている。言葉も違い、教育も文化も違います。相手を理解することができません。食べ物も産物も気候も違います。風習、習慣、何もかも違うのです。何もかも理解できません。こんなはずではなかった。今神から見捨てられているとしか思えない、受け入れがたい現実がある。一刻も早くここから離れ、出ていきたいのです。戻りたいのです。慣れ親しんだ故郷を離れ、全く知らない場所に来て、慣れない場所にいる。ここは家ではない、くつろぐことのできない場所であり、その孤独の中にいたのです。人生に空しさを感じ、意味と目的を見失っていたのです。

 捕囚の経験が今でも特に注目されるのは、その捕囚の経験は私たちと無関係な経験ではないからです。まさにこの世界で生きている私たちが例外なく経験することなのです。私たちの人生も誰一人例外なく生きていく場所を移していく捕囚の民に似ています。ずっと同じ環境にいる人はいないのです。人は住み慣れた母の胎から生まれ出ていきます。そして家の中で育ち、そこから学校へ入り、だんだんと生きる場所を移していきます。仕事や結婚、職場をかえ、他の様々な事情で生きていく環境が変わっていきます。病気したり、何か大変な出来事で、生活も環境もがらっと変わることがあります。住み慣れた環境、慣れ親しんだ環境ではなく、全く経験したことのない、むしろ嫌だ、としか思えない、将来も何も希望がないと思える環境の中に置かれることもあります。この地、この人々に起こること、その将来が自分に何の関係があるのか、と思える環境に置かれることがあるのです。自分の周りにいる人々のことも、将来のことも、自分のことでさえ、どうでもよい、と思えてしまう時があるのです。

 このような現実の中にある人々に、エレミヤが、偽預言者のように、「この状況はすぐに終わり、解放されるから、安心しなさい」と言えるなら、どんなによいことでしょうか。けれども、エレミヤは、すぐに解放されるから安心しなさい、と言ったのではありませんでした。反対に、あなたがたは今キャンプしているのではない。これこそがあなたがたの生きていく家なのだ、というのです。しかし、どうして、このメッセージを受け入れることができるのでしょうか。

 エレミヤ自身、この現実を受け入れることができたのは、10節からあるように、自分の視点、この世界の視点ではなく、神さまの視点から現実を見ていったからです。人々はすぐに帰れると思っていました。しかし、神さまは「70年の時が満ちたなら」と言われます。捕囚から解放され、イスラエルを回復されるのは70年の後なのです。70年という期間は生きていることを誰もが保証される期間ではありません。エレミヤの言葉を聞いていた人々はみな死んでいなくなっていく年月です。しかし、その自分の人生の年月を超えた神の視点があります。「わたしは恵みの約束を果たし、この地に連れ戻す」。「わたしは、このあなたたちのために立てた計画をよく心に留めている。それは平和の計画であって、災いの計画ではない」。この神の視点、神さまの約束こそ「将来と希望を与える」のです。

 神さまはこの約束を実現するために、今バビロンにいる捕囚の中にある人々を見捨てることなく守り、支えておられました。神の愛の御手の中で導いておられました。その神さまに出会っていったのが捕囚の民なのです。12節と13節は、その神が共にいてくださる、その神さまに祈りを通して、礼拝で出会うことができるのだ、と告げられています。捕囚の民がバビロンで見出したもの、それはエルサレムで人々が見失っていた「共にいます神」でした。神さまが今ここに共にいてくださる。神はエルサレムにしかいないと思っていた。神はここにいない、神さまに見捨てられている、と思っていた。しかし、この地に、この自分と神が共にいてくださる。自分に恵みが何もないのではなく、豊かに与えられていることを知ったのです。荒れ野としか思えない場所、そこで共にいます神を見出し、その命のみ言葉に聞き、神の命の交わりをいただいていく。それが力となり、喜びとなり、神さまの未来への働きに加わっていく力となっていくのです。

 神さまは、御子イエス・キリストによって、私たちのための救いを実現し、必ず将来、神さまの救いの完成、私たちのための平和の計画を完成してくださいます。私たちの人生の長さを超えて歴史を導き、私たちのための平和の計画を実現するために今も生きて働いておられます。私たちを守り、支え、導いてくださっています。どんな時も変わらずに私たちを愛し、決して見捨てなく共にいて下さっています。この神を信頼していく時、自分の人生を神さまから耕すように与えられている畑として信じ、受け入れ、与えられている畑を耕していくことができます。神さまが共におられ、ここにも生きて働いて下さっている。だから、そこにいる全ての人、木々、植物、動物、人々の生活、この世界を受け入れ、自分なりに研究し、配慮し、耕していく。平和に健やかに生きることができるように神の僕として仕えていく。愛をもって仕えていくように招かれています。見知らぬ場所、見慣れぬ場所で、理解できない人、慣れていない人にそのようにしていくことは確かに危険を伴います。けれども、何があっても、神を信じて生きていくことができるように、神さまは導いてくださいます。

 この捕囚の時代は、旧約の歴史の中でかつてないほどの最悪の時代でした。けれども覚えていただきたいことは、この最悪の時代に、旧約の歴史の中でかつてなかった最良のもの、最善のものが生まれていったクリエイティブな時代となった、ということです。本当に大切なものが何であるのかを示され、それを追い求めていくこと、すなわち共にいます神を発見し、その神を追い求めていくことへ解放されていったのが捕囚の時代でした。そしてエルサレムでなされなかったことがこのバビロンで行われていきました。絶望に包まれていたはずの人々の手で旧約聖書の書の多くが、その伝承がまとめられ、編集されて、大きな希望が伝えられ、もたらされていったのです。変わりゆく現実の中で、荒れ野としか思えない現実の中で、神に出会い、神が共にいますこと、自分は何者なのか、神さまに愛されて導かれている神の子、僕であることを知って、かつてない程に、神に祈り、神に希望をもって創造的に仕えて生きるようになったのです。最悪だと思える場所、空しさを覚える場所。しかし、その場所が最も良いものが創造的にクリエイティブに生み出されていく場所となるのです。なされた悪を善に変えていくこと。万事において益をもたらしていくこと。それが聖書を通して証しされている神さまの働きであり、そのことは私たちにも起こるのです。

 私たちの人生も捕囚の民のような現実の中にあります。様々な出来事が起こります。けれども、確かなことは、神さまは私たち一人一人に平和を与える計画を持っておられます。そしていつもどんな所にあっても愛をもって支え導いてくださいます。この神さまが共にいてくださっています。この朝、私たちもエレミヤに問われています。私たちもこの神さまを信じ、与えられている人生の畑を耕し、神さまに仕えていきたいと思います。