東京主僕教会の最近一か月の説教など

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2017年8月27日主日礼拝説教

「新しい契約の約束」エレミヤ31・31-34      2017.8.27

 

 今日の聖書の箇所はエレミヤ書、また旧約聖書全体の中でも真骨頂、最も大事な箇所の一つと言われます。ここに「新しい契約」という言葉が出てくるからです。聖書の入門書では必ず新約聖書旧約聖書の説明がでてきます。旧約と新約の約という言葉は

 

「契約」のことであり、神と人との間に成り立つ約束が契約です。旧約聖書の契約とは、エジプトで苦しんでいたイスラエルの人々が解放され、シナイの山で十戒を始めとした神さまの律法の戒めの言葉を受け、この戒めを守り、神の民として生きることを誓ったものでした。それが旧い契約であり、新約聖書はこの契約がイエス・キリストにおいて新しい契約に更新されたのだと理解します。そして古い契約が新しい契約に更新されたのは、古い契約が破られたからでした。

 

 今日の32節にはそのことが指摘されています。新しい「その契約は彼らの先祖の手をとって、エジプトから導きだした時に結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った」。ここにこれまでのイスラエルと神さまの歴史、イスラエルの神に対する罪と反逆の歴史が凝縮されています。モーセによって荒れ野を導かれ、カナンの地に入ったイスラエルの人々の歴史は神さまに繰り返し背を向けて、神さまに背き、神さまの御心から離れていった罪の歴史でした。エレミヤ書でも、エレミヤはその罪を指摘し、繰り返し神のもとに立ち返るように招いてきましたが、人々はそれは無駄なことであり、自分の計画、自分の思いに従うのだと拒絶し、反対にエレミヤを迫害していったのです。自分たちは神に選ばれ、神の御心を知っている、だから神は決して見捨てない、エルサレムも陥落して国が亡びることもないと思っていました。しかし、捕囚という現実に立ち至ると神さまに見捨てられてしまったという絶望に包まれます。もはや自力で事態を解決することはできない状況でした。

 この捕囚の出来事はイスラエルの歴史の中で最悪の出来事でした。最大の失敗、最大の挫折、最大の試練、最も深い絶望の時でした。しかし、この30章と31章が慰めの書と呼ばれてきたのは、その中で語られた新しい契約の約束がこの人々を慰め、希望を与え、支えてきたからです。誰にでも失敗や挫折があります。自分の力ではどうすることもできないことに直面し、絶望する時があります。しかし、覚えていただきたいことは、どんな時にもその私たちを慰め、支え、希望を与えていくのが、神さまによって与えられた新しい契約なのだということです。

 「わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った」。ここには明らかにイスラエルの人々からの契約破棄の事実が告げられています。イスラエルの人々には罪について全く弁明の余地はありません。しかし、それにもかかわらず、神さまはその民を見捨てず、一方的に「新しい契約」を彼らと結ぶ、と言われます。神さまはそのまま人々をあきらめたくないのです。捕囚の地に、罪と死の支配の中に放っておきたくないのです。しかし、だから、と言って、神さまに背こうとする心を大目に見て、そのまま受け入れることはできません。神さまを信じ、神さまに従っていくことが、本当の命を得て、幸いに至る道だからです。

 そこで、神さまがとったその罪に対する解決が、今日の聖書のみ言葉であり、神さまの奇跡のような恵みが示されています。それは神さまが人々の心を自ら変える、という奇跡でした。神さまがどんなに言っても人々ができなかったこと、それを神さまがご自分で行うのだと言われます。「すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す」。ここに「新しい契約」の「新しさ」があります。かつての古い契約の時には、その内容である律法、神さまの御心は「石の板」に刻まれました。しかし、来るべき「新しい契約」の時には「彼らの心」に記されます。律法は人間を外側から規制するのではなく、人間の内側、人間の心に刻まれて、人はそれを自発的、自然に感謝をもって守らざるを得ないように神さまは変えてくださるのです。それは人間が自分の力ではできないことでした。そのことが次の言葉にあらわれています。「そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、『主を知れ』と言って、教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである」。この「知る」とは単なる知識として知ることではありません。神さまについての知識ではありません。神さまと出会い、神さまに信頼し、従って、神の道に生きていくことです。そのように神さまに出会って、変えられていくのです。

 そして、大事なことは、この新しい契約、神さまと私たちの関係を根底から支えるものが罪の赦しなのです。神さまは、出エジプト以来の数々の罪、神との契約を自分から破ってきた罪、だから罰するのではなく、その「彼らの悪を赦し、再びその罪を心に留めることはない」と言われます。神さまはこの赦しによって、人間が破り、破棄した契約をご自分から結び直し、神のものとして新しい歩みを始めさせてくださるのです。この後の32章を見ていくと、驚くべき言葉が出てきます。32章の40節~41節には今日のみ言葉と似たような言葉が出てきます。「40わたしは、彼らと永遠の契約を結び、彼らの子孫に恵みを与えてやまない。またわたしに従う心を彼らに与え、わたしから離れることのないようにする。41 わたしは彼らに恵みを与えることを喜びとし、心と思いを込めて確かに彼らをこの土地に植える」。ここに「心と思いを込めて」と出てきます。心と思い。この言葉は、心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、力を尽くして、主なる神を愛しなさい、と人間に言われる時に用いられている言葉です。しかし、この契約では人間ではなく、神ご自身が、彼らを、心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして愛し、赦し、導き、回復してくださる。このように、砕けて倒れ伏してしまうイスラエルを命がけでご自分を傾けて、愛し、赦し、回復してくださる神さまの恵みが明らかにされています。私たちがどんなに神さまに背き、神さまを見失っても、神さまは私たちを見失うことはありません。どんな時にも私たちを命がけで愛し、赦し、探し出し、背負い、導いてくださる神なのです。

 この神の赦しがあるからこそ、人は神に信頼し従っていくことができるのです。エレミヤはこの愛と赦しを受けとって、神さまを信頼し、従うように招いています。神さまは人の心を強引に強制的に変えるのではありません。手を添えて少しずつやさしく導く変えていく。神の赦しが人を変えていきます。ここからわかることは、イスラエルの歴史の中で最大の失敗、最大の挫折と言えるものを経験した者を耐えさせ、慰め、回復することができるのは、この神によって示された愛と赦し、慰めと励まし以外にはないということです。それは聖書全体を見ると、新約聖書にでてくるペテロもそうでした。三度もイエス様を否定したペテロが立ち直ることができたのは、自分のために十字架で死なれ、復活されたイエス様に出会い、その赦しを知り、慰められ、癒されていったからです。人が、私たちが本当に挫折した時には、それがキリストの十字架と一つに結び合わされ、この神の赦しと慰めとの出会いの場にされる以外に救いはありません。それなしには立ち直り、新しい歩みを始めていくことはできません。そのように私たちも失敗や挫折の時に癒され、立ち直ってきた経験があるのではないでしょうか。

 このエレミヤ書の新しい契約はイエス様によって実現されました。先ほど読んだコリントの信徒への手紙のみ言葉には、イエス様がご自分の御受難と十字架の死によって、エレミヤ書の新しい約束が実現する、と言われています。私たちは御子イエス・キリストによる罪の赦しを与えられ、聖霊の働きの中で、アッバ父よ、神さまの子ども、神のものとして、父なる神よと親しく呼び、神さまを信じ、神さまの愛と赦しをもって生きる命を与えられています。神さまに従う心の創造が始まっています。このエレミヤ書の約束の実現が私たちに始まっています。この神さまの愛、神さまの赦しが私たちを慰め、支え、新しく造り変えていくのです。

 エレミヤはこの神さまの愛、赦しを信じて、32章で、驚くべき行動に出ています。この神さまの赦しによって始まって完成していく神の将来の御計画に希望をもって、人から笑われても、愚かな者だと言われても、今バビロニア軍が進軍してくる土地であり、地価が下がり、将来的には占領され、価値のない場所であると見えても、絶望しかない場所であっても、故郷のアナトト村の先祖伝来の畑を買い取っていく創造的な行動に出たのです。それは神さまによって与えられている希望の印であり、そして決して引き離されることのない神の愛、神の赦し、神の大いなる肯定があることを世界に表していく創造的な行為でもあるのです。

 考えてみると、このエレミヤが生きていく世界は依然として厳しい現実です。人々が自分を理解し、受け入れてくれない。葛藤と戦いの人生です。時には人に逆らってイエスと言い、時にはノーと言わざるを得ない厳しい戦いがあります。また単純にイエスかノーかは言えない、〇と同時に×をつけざるを得ない現実もあります。理解と無理解。信頼と不信。愛と冷たさが混じっている。それがエレミヤの生きていく現実であり、そ私たちが生きていく現実であり、葛藤に満ちた世界です。しかし、その葛藤の中で、エレミヤが厳しい戦いの中で疲れ果てず、あきらめず、投げ出さず、勇気をもち、希望をもって耐え、創造的なものを生み出していくことができたのは、新しい契約によって約束されて与えられている神の愛、神の赦しの中に、神の大いなる肯定の中に繰り返し立っていくからです。私が「神の大いなる肯定」という言葉を覚えた、ある説教者の文章があります。一度読んだら、たびたび思い出すようになった言葉です。「私たちに対するキリストにおける神の大いなる肯定、人生に対し神がしかりと言い、生きてよしと言い給う。これが人生と歴史の中のしかりと否を持ちこたえさせる力であり、この神の肯定に対し、私たちもしかりという。そこに創造的なものが生み出されていきます」。

 私たちは礼拝を通して、洗礼、聖餐を通して、教会を通して、この大いなる肯定に繰り返し、立ち返り、神の肯定、神の赦し、神の愛を身に帯びて生きる人にされていくことができます。この神の愛、神の赦し、神の大いなる肯定の中に立って、希望をもって、今度の日曜日の創立60周年の記念の礼拝を迎えていきたいと思います。