東京主僕教会の最近一か月の説教など

礼拝に来ることができなかった方、教会に関心のある方のために牧師が作成しています。どうぞ、礼拝にも来てみてください。

2017年9月3日創立60周年記念礼拝

「神の言葉の自由」エレミヤ36・22-30     

 

 東京主僕教会では、1957年9月、台東区の事務所を借りて礼拝が開始されました。この朝、教会は創立60周年の礼拝を迎えています。これまでの間、教会は木下牧師、森田牧師、白井牧師とともに、伝道所の開設、伝道教会、独立教会の建設へと神さまに導かれてきました。台東区で始まった礼拝の場所は北区、そして西池袋と移りながら、1990年に、この地に教会堂が新築され、礼拝が続けられてきました。この礼拝の60年の歴史は、聖書のみ言葉、神の言葉が、今は召された会員の方々を含め、私たちを生かし、命を与え、働いてきた歴史である、ということができます。

 宗教改革は神のみ言葉を礼拝の中心にすえていく改革でした。そして、わたしたちの礼拝もこの伝統に立っています。礼拝は神のみ言葉に中心を持っています。み言葉を囲んで集う。み言葉を説教する。み言葉に応答する。み言葉を記念(封印)する。世界へみ言葉を携えて御言葉に従って出ていく。このように礼拝は神のみ言葉を中心に構成されています。教会は神の言葉の働きの中で生かされ、支えられ、導かれてきました。

 今、この時代、伝道の働きが始まった1957年とは時代の状況が大きく変わっています。今はポストモダンと言われて久しい時代であり、宗教、信仰のような「大きな物語」を人が認めず、否定する時代である、とも言われます。けれども、その時代にあって、これからも私たちを確かに導き、支え、生かし、希望を与えていくのは、聖書の言葉であり、聖書を通して聖霊によって語られる神の言葉なのです。

 7月の末の日曜日からエレミヤ書から少しずつ聞いてきましたが、今日のエレミヤ書の聖書のみ言葉でひとまず最後になります。しかし、この聖書の箇所では大変なことが起こっています。

 神さまが預言者エレミヤに人々に告げるように言われ書き記された巻物が燃やされてしまうのです。「時は9月」、太陽暦では11月から12月のことです。この年は南ユダを脅かしていたアッシリア帝国バビロニア帝国のネブカドレツァルに完全に敗北してから一年後、バビロニアに従うのか否かが問われていく厳しい時でした。36章の始まりを見ると、エレミヤは、神さまから、イスラエルの人々が神に背いたがゆえにバビロニアを通して裁くこと、それ故に、神さまに悔い改めて立ち返り、悪の道から離れるなら、罪を赦すこと、この神の言葉を人々に伝えるように言われたことが分かります。それをエレミヤが口述し、バルクが聞き取り、巻物に書き記したのです。

 興味深いのは、巻物の朗読が場所を変えて起こっていくことです。9節以下を見ると、公の席で語ることを禁じられたエレミヤに代わって、バルクが神殿でこの巻物の言葉を読み、それを聞いたミカヤの心が動かされます。今度はそのミカヤから聞いた人々が15節でバルクを呼び、その朗読を聞いて心を動かされていきます。そして今度は22節、その人々が王の前で巻物が読まれるようにしていきます。聖書の言葉、神の言葉が繰り返し朗読され、王のいる宮殿に近づいていく様子が分かります。聖書の言葉が朗読され、それを通して語られる神の言葉が聞かれる時、目には見えない不思議な神さまの働きが起こります。聖書を通して語られる神の言葉は人の心にとどまり、応答を引き起こしていきます。そして人を導き、その人を変えていきます。聖書を通して働く神の言葉の力があります。その神の言葉によって私たちは導かれてきました。

 しかし、この神の言葉の力に限界はあるのでしょうか。22節の「王」は「ヨシアの子ヨヤキム」のことですが、かつてその父ヨシア王が申命記の一部である律法の書が朗読された時、罪を認め、悔い改め、神に立ち返るという出来事が起こりました。聖書は神を否定し受け入れない人間の罪を指摘し、あらわにしていきます。ヨシア王は自分の罪を知り、衣を裂き、悔い改め、神さまを認め、受け入れました。けれども、その子ヨヤキムは衣を裂いたのではありません。巻物が読まれ、聞いていきますが、その分垂れ下がっていく部分をナイフで切り取り、暖炉の火にくべていくのです。ついにはその全てを燃やしてしまったのです。「衣を裂き」の「裂き」と「ナイフで切り取り」の「切り取り」はヘブライ語では同じ言葉です。衣を裂くのではなく、ナイフで切り取ったことをエレミヤ書は強調しているのです。

 ゆっくりと朗読を聞きながら、時間をかけて少しずつナイフで切り、火にくべていく。それは決して一時(いっとき)の感情によるものではありません。極めて冷静な判断によっています。王は何が語られているのかをよく理解しているのです。巻物を燃やすということは神の言葉を受け入れないことを示しています。神の主権を認めず、自分が自分の王であり続け、その主権を神に明け渡さないことを示しています。神の言葉を殺していこうとするのです。しかし、それは決して異常で特別な行為ではなく、歴史の中で繰り返されてきた出来事でした。イエス様もぶどう園のたとえで同じようなことを語られました。ブドウ園の農夫達は主人が送り続けた僕を次々に追い返し、乱暴し、殺害しました。そしてついに主人の最愛の息子まで殺してしまいました。神の言葉を殺す罪は、神の子の殺害、イエス・キリストの十字架の死にまで至るのです。

 しかし、人間の罪が極まったところ、さらにそこに神の恵みがなおいっそう満ち溢れていきます。聖書は燃やすことができるかもしれませんが、聖書が示す神の言葉は燃やすことはできません。私たちにとって希望なのは、この物語が26節で終わらなかったということです。焼かれた書物が焼かれたままで終わらなかった、神の愛の炎がさらに燃え立っていったということです。神さまはエレミヤとバラクに再び巻物を取って書き記すように命じられました。燃やされた巻物に書き記された全ての言葉は再び書き記され、さらに多くの言葉が付け加えられていきました。聖書の言葉、聖書の言葉を通して語られる神の言葉は人間の手によって燃やし尽くされることはできませんでした。どんなに神さまを認めず受け入れない罪深い状況に直面しても、どんな闇の中にあっても、神の言葉は束縛を受けません。救いの御心は変わることはないのです。かつて告げられた新しい契約の約束を実現し、人を赦し、神さまに向けて立ち直らせ、生かしていく。人を救いの道へ向けて立て直し、再建していく。その目的を達成するために、どんな状況にあっても神の言葉は生きて働いていくのです。

 先ほどテモテへの言葉二のみ言葉を読みました。テモテへの手紙はローマの獄中からパウロが若い伝道者テモテを励ますために書いた手紙です。「私は苦しみを受け、ついに犯罪人のように鎖につながれている」。自分は鎖につながれている状態にあり、みじめな、不名誉な状況にある。身動きできない状態にある。死が迫っているような状況にある。けれども、私たちのために苦しみを受け、死なれたイエス・キリストがその死の力に勝利し、復活し、今も生きておられ、共にいて、働いて下さっています。神の言葉であるキリストはつながれていないのです。全ての罪の力、悪の力、死の力に勝利して、今も生きて働いておられます。

 鎖につながれているような現実は私たちの人生にも起こります。病気や死の現実、それだけではなくて、様々なことで、鎖につながれている、と言える現実があります。けれども、神の言葉、キリスト、福音はつながれていません。11節以降は当時の讃美歌です。「キリストを否むなら、キリストも私たちを否まれる」。キリストをたびたび否む罪深い私たちです。しかし「私たちが誠実でなくても、キリストは常に真実であられる。キリストはご自身を否むことができないからである」。たとえ私たちが誠実でなくても、キリストは私たちを愛し、私たちのための契約の約束に常に真実で誠実でいてくださいます。キリストはこのご自分の在り方を否定することはできません。どんな人間の否定も背きも私たちに対する神の約束の実現を妨げることはできません。キリストはどこまでも私たちを探し求め発見し背負い救い出す神であり、救いの約束を守り、愛し、赦し、共にいて、導いて下さる神なのです。そのためにみ言葉をもって生きて働いてくださっています。それが私たちの希望なのです。この希望があるからこそ、パウロはその後、「み言葉を宣べ伝えなさい。折がよくても悪くても励みなさい」、このように勧めていくことができたのです。

 ドイツの村の抵抗運動を記した『嵐の中の教会』という本の言葉に有名な言葉があります。「困難な時代になっても、どうか皆さん、神の言葉はつながれてはいないことを思い起こし、このことに固着してください。神の言葉は人間の束縛を受けることもないのです。…神の言葉はわたしたちに左右されることはありません。神の言葉は自らその進む道を定めて、永遠に残るのです。なぜなら、それは神の言葉であるからです」。神の言葉は人の手で自由にできるものではなく、永遠に残るもの。このことこそ困難な時の慰めであり、希望なのです。

 私たちはこの希望をもって、神の言葉であるキリストを信じ、「み言葉を宣べ伝えなさい。折がよくても悪くても励みなさい」、この務めに仕えていきたいのです。