東京主僕教会の最近一か月の説教など

礼拝に来ることができなかった方、教会に関心のある方のために牧師が作成しています。どうぞ、礼拝にも来てみてください。

2017年9月3日創立60周年記念礼拝説教要約

「神の言葉の自由」エレミヤ36・22-32

 

 東京主僕教会の1957年9月からの礼拝の60年の歴史は、聖書のみ言葉、神の言葉が今は召された会員の方々を含め、私たちを生かし、命を与え、働いてきた歴史である、ということができます。

 今、1957年とは時代の状況が大きく変わり、ポストモダンと言われて久しい時代です。宗教、信仰のような「大きな物語」を人が認めず、否定する時代であるとも言われます。けれども、その時代にあって、これからも私たちを確かに導き、支え、生かし、希望を与えていくのは聖書の言葉であり、聖書を通して聖霊によって語られる神の言葉なのです。

 エレミヤが口述し、バルクが聞き取り、書き記された巻物は朗読され、聞かれていきます。その言葉に心を動かされた人々によって、次第にその朗読の場が王のいる宮殿に近づきます。聖書の言葉が朗読され、それを通して語られる神の言葉が聞かれる時、目には見えない不思議な神の働きが起こります。神の言葉は人の心にとどまり、応答を引き起こしていきます。そして人を導き、その人を変えていきます。聖書を通して働く神の力があります。その神の言葉によって私たちは導かれてきました。

 しかし、王ヨヤキムはこの巻物が読まれ聞いた時、その朗読を聞いていきますが、その読まれて垂れ下がっていく部分をナイフで切り取り、暖炉の火にくべていくのです。ついにはその全てを燃やしてしまいました。それは決して一時の感情によるものではありません。極めて冷静な判断によっています。王は何が語られているのかをよく理解して、燃やしているのです。

 巻物を燃やすということは神の言葉を受け入れないことを示しています。神の主権を認めず、自分が自分の王であり続け、その主権を神に明け渡さないことを示しています。神の言葉を殺していこうとするのです。この神の言葉を殺す罪は、神の子の殺害、イエス・キリストの十字架の死にまで至るのです。

 しかし、人間の罪が極まったところ、さらにそこに神の恵みがなおいっそう満ち溢れていきます。聖書は燃やすことができるかもしれませんが、聖書が示す神の言葉は燃やすことはできません。神さまはエレミヤとバラクに再び巻物を取って書き記すように命じられました。燃やされた巻物に書き記された全ての言葉は再び書き記され、さらに多くの言葉が付け加えられていきました。聖書の言葉、聖書の言葉を通して語られる神の言葉は人間の手によって燃やし尽くされることはできませんでした。

 どんなに神さまを認めず受け入れない罪深い状況に直面しても、どんな闇の中にあっても、神の言葉は束縛を受けません。かつて告げられた新しい契約の約束を実現し、人を赦し、神さまに向けて立ち直らせ、生かしていく。人を救いの道へ向けて立て直し、再建していく。その目的を達成するために、どんな状況にあっても神の言葉は生きて働いていくのです。

 神の言葉はつながれていない。神の言葉は人の手で自由にできるものではなく、永遠に残るものである。このことこそ困難な時の慰めであり、希望なのです。だから、この希望をもって、神の言葉であるキリストを信じ、私たちは「み言葉を宣べ伝えなさい。折がよくても悪くても励みなさい」、この務めに仕えていきたいのです。