東京主僕教会の最近一か月の説教など

礼拝に来ることができなかった方、教会に関心のある方のために牧師が作成しています。どうぞ、礼拝にも来てみてください。

2017年9月17日主日礼拝説教

「赦さない僕」マタイ18・21-35           

 

 先日、本屋さんを覗いてみると、2013年にドラマで「倍返し」というセリフを流行らせて大ブームとなった「半沢直樹」のシリーズの第四巻が発売されたことを知りました。今もこのドラマの人気にあることを思わせられました。

 

もがきながら決して腐らず仕事を進めていく、筋が通らない、おかしいと思うことは指摘し、正しいと思う道を行く。その主人公の姿に励ましを与えられてきた人も多いと思います。そして「やられたら、やり返す。倍返しだ」、このセリフに多くの人が心を動かされてきました。世界の歴史のなかで、英雄、ヒーローと呼ばれる人々の大きな特徴は、リベンジする、復讐をするということだと言われています。復讐をし、懲らしめる。報復する。そのことは人間の心の抜きがたい欲求であり、それをどこかで評価し、大事なこととして考えるところが人の心にはあるのです。

 だとするなら、それとは正反対の赦しを語る今日の譬え話は、この世界の人々にとって、そして私たちにとって、実は到底受け入れることができない、評価できないものであり、挑戦的なものであることに気付かされます。奇跡に近いこの譬え話は、ペテロの応答から語られました。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきですか」とイエス様に問いました。この問いはその前で語られたイエス様の御言葉に誠実に対応しようとしたことの現われです。ペテロは「7回までですか」と聞きます。7回まで赦したらもう十分でしょう?というのです。ユダヤの律法では3回までは赦すようにと言われています。ペトロはその2倍にあたる6回にプラス1をするのですから非常に寛大です。しかし、イエス様は7の7十倍、無限に赦しなさい、と言うのです。

 しかし、私たちに無限に赦すことなどできるのでしょうか。そこでイエス様は一つの譬え話を語られました。名作と言われる童話や物語は何かしらの重要なメッセージを一つは持っています。それを語るための詳細は飾りであったり誇張であったりします。この譬え話もそうです。この譬え話で王は神さまをさしていますが、この王の全ての在り方が神さまの在り方であるとは言っていません。神さまは怒ると家族までその罪に問い、牢に入れ、奴隷にする、と読めてしまいますが、決してそうではありません。現にユダヤの律法では人を奴隷にすることは禁じられているのです。幾つかのことは誇張したり、装飾されたりして語られています。では大事なことは何でしょうか。

 ここに1万タラントンの借金をしている家来が出てきます。デナリという言葉も出てきます。1デナリが労働者1日分の賃金です。そして1タラントは6000デナリでしたから、1タラントは労働者6000日分の賃金。1万タラントは約16万年分の賃金という途方もない額になります。家来は王にひれ伏して返済に猶予期間を設けてくれるよう、今は忍耐してくれるようにお願いしました。全部お返ししますから、というのです。しかしこの家来の認識は誤っています。その負債はどんなにしても一生かかっても全部返すことはできないからです。この家来の願いに対して王はどのように接するのでしょうか。猶予期間をつけてでも、とことん返済させ、できなければ牢屋に入れる。それが普通かもしれません。しかし、この王はそのようにしませんでした。それどころか、それ以上のことをしています。「憐れに思って」、全てを帳消しにする裁きを下したのです。

 自分の負債の大きさも分からない家来の姿は人間が神様の目にどんなに罪深い存在なのかを示しています。どんなにしても返すことのできない程の負債、深い罪の中にどっぷりと浸かっている。それほどの大きな罪を負っている。それが聖書の指摘する、神さまの前での私たちの姿なのです。しかし、その私たちを憐れに思って、神さまはその一切の負債を帳消しにし、赦して下さいました。「憐れに思って」、この言葉は聖書に何度も出て来るスプランクニゾマイという言葉ですが、スプランクナという体の内臓、はらわたを示す言葉が使われています。はらわたがねじれる程にその人の苦しみを分かちあい、その人と一つになっていく。この人の苦しみ、悲惨さ、痛み、その全てをご自分のものとして、共に苦しみ、全てを赦し、受け入れ、人を生かし解放していく愛が表れています。それがイエス・キリストの十字架に示された私たちに対する神の愛なのです。この愛があるからこそ、私たちがどんな自分に思えたとしても、この自分を神さまは愛して下さっている、神さまの愛する子供とされているのだと信じることができるのです。

 南アフリカの人種差別撤廃に貢献したマンデラ大統領の演説に次のような言葉があります。「わたしたちは皆、輝く光。神の子。私たちは誰でも自分の内にある、神の恵み、栄光を世に放つために生まれてきています。そのように生きるならば、他の人が輝くのも許せるし、自分が解放され、他の人も解放していくでしょう」。どんな時も神さまの憐みの中にあり、神さまに愛されて、赦されている自分であり、神の子であり、神の栄光をあらわすために用いられていく自分である。それがマンデラ大統領が課題を考える時の出発点であり、いつも感謝をもって思い起こしたことでした。

 しかし、赦された家来が同じように自分に負債を抱えている人を赦すはずだ、赦すべきだと、私たちも本当に思えるでしょうか。赦された1万タラントンの額に比べるなら、百デナリという額は問題にはなりません。けれども、この家来は仲間を赦しませんでした。捕まえて、首を絞め、牢屋に入れてしまいます。返済していくことの可能性のない牢屋に入れてしまうのです。このことを知った王はこの家来を怒り、牢に入れていきます。「私がお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか」。明らかに、この王には大事に守っている論理があります。あなたの行為は理に合わない、不合理だと言うのです。憐れみを受けた者として憐れんでいく。赦された者として、あなたは赦していく。それがこの王の論理です。赦さなければ救われない、ということではありません。赦しと救いは神の憐れみによって一方的なものとして与えられる恩寵です。ジャン・カルヴァンは、人の負い目を赦すことは、神の赦しの条件ではなく、その印だと言いました。救いの結果、人に対する憐れみが現れます。神さまから受けた憐れみ、赦しは、人に対する赦し、憐れみとして現わされます。自分は同じようにはできない、と思えても、神さまの愛と赦しを受け入れ、自分を委ねていく時、神さまの恵みによって、神さまの愛に仕えていく者に変えられます。たとえ完全に赦すことができなくても、敵のようにしか思えない人のために祈る者に変えられます。憐れみを受けている者として憐れみをもって生きる。愛され、赦されている者として、愛をもって、赦しをもって仕えていく者になっていく。そのように私たちはキリストに結ばれて、長い時間をかけてキリストに似た者に変えられていきます。そこに神の平和に包まれた歩みがあります。それが今朝、私たちに与えられている新しい命であり、私たちに起こっている新しい創造であり、皆さんに起こっていることであり、皆さんはこの世界の希望の印なのです。

 「エレファント・マン」という映画があります。19世紀のイギリスに生きた主人公のジョン・メリックは体が極度に変形し膨張してしまう病気にかかって、人々の無理解と社会の残酷さの中で生きていきます。しかし、彼をきちんと治療しようとする一人の医師と出会い、そして彼を一人の人間として接する一人の女性と出会い、彼は変わっていきました。彼らは彼を目で見て、彼と語り、彼の手に触り、彼の友と楽しんでいく。この人々との出会いがこの人を癒していきました。病気は癒されませんでしたが、メリックは、それまで近づいてくる人に疑いと怒りをもって接していましたが、穏やかに憐れみをもって接していくようになりました。それまで奪われていた人間性を取り戻し、回復したのです。最後は穏やかに平和のうちに息を引き取ったのです。

 この人に起こったことは、聖書に示されている人間性の癒し、回復、新しい創造と重なってきます。憐れみを受けている者として憐れみをもって生きるようになる。愛されている者として愛をもって生きるようになる。赦されている者として赦しをもって生きるようになる。この人に起こったことが奇跡であるならば、それは、私たちにも今起こっている神の奇跡であり、新しい創造なのです。フィリピの信徒への手紙1章6節に「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています」とあります。私たちを憐れみ、私たちを愛し、赦し、救いの御業を始めて下さった神はどんな時も決して私たちを見捨てることはありません。私たちといつも共にいてくださり、私たちを愛し、私たちを導いてくださり、私たちに道をいつも備えて下さっています。

 「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、我らの罪を赦し給え」。日々負債のように罪を積み重ねていく私達です。私たちを憐れみ、罪を赦してくださる神さまの大きな愛に感謝して、神と人を愛する者として歩んでいきたいのです。神さまが憐れみ、愛し、赦して下さっている。この福音がこれからの皆さんの人生の支え、生かし、変えていくのです。

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