東京主僕教会の最近一か月の説教など

礼拝に来ることができなかった方、教会に関心のある方のために牧師が作成しています。どうぞ、礼拝にも来てみてください。

2017年10月1日礼拝説教

「神は私たちと共におられるのか」出エジプト記17章1-7節  

 今朝読んでいただいた出エジプト記の聖書の箇所には、モーセによって導かれたイスラエルの人々がエジプトを脱出し、荒れ野に入って旅をしている時に起こった出来事が語られています。そこで、飲み水に困り、渇きのために死の恐怖を覚えた時、エジプトから導いてきたモーセに、ひいては神さまに文句を言い、不平不満を言いだしたのです。

 2節でモーセは「なぜ、わたしと争うのか。なぜ、主を試すのか」と言っています。「試す」とはテストすること、確かめることです。彼らが試験し、確かめようとしていること。それは単純に水が与えられるかどうかではありませんでした。それを通して、7節「果たして、主は我々の間におられるのかどうか」を確かめるのです。かつて、神様はモーセをエジプトにいる人々を解放するために遣わす時、3章12節で、「わたしは必ずあなたと共にいる」と約束されました。3章14節で、ご自分の名前を「わたしはある。わたしはあるという者だ」と語られ、私は必ずあなたがたと共にある、あなたがたの味方として共にある、と約束し宣言されました。神様はこのような約束をイスラエルの民に与え、エジプトから解放し、荒れ野の旅路を導き、その約束を果たしてこられました。この直前の15章では苦い水を甘くし、16章では天からのパン、マナを与えてこられたのも、「わたしは必ずあなたがたと共にいる」という約束を果たされてきたからです。しかし、今、水がないという苦しみを経験し、再び「果たして、主は我々の間におられるのかどうか」と疑い、主が共にいて下さるという約束は偽りではないのかと疑ったのです。

 今日の聖書のみ言葉によれば、信仰を持って生きる、とは神さまの「私は必ずあなたと共にいる」という約束を信じて生きること、ということができます。しかし、私たちも、イスラエルの人々のように、この世の荒れ野において信仰の旅を続けていく時、果たして本当に神様は自分と共にいて下さるのだろうか、という疑いに陥ることがあります。その時、神さまに信頼できず、自分を委ねることができず、不安の中でおそるおそる生きるようになります。その時、自分を守り、周囲に対しては文句や不平や不満ばかりを語るようになりやすいのです。それがイスラエルの人々に起こっていたことであり、私たちにも起こることなのです。この聖書の箇所は、教会暦でも受難節やこの時期に読まれる箇所としてとりあげられる聖書の箇所であり、それだけ私たちの信仰にとって大事な箇所であることを示しています。神は私たちと共にいてくださるのか、それは荒れ野に生きる私たちの問いでもあるのです。

 この問いに神さまは答えて下さいました。民に詰め寄られたモーセは神様に叫びました。「わたしはこの民をどうすればよいのですか。彼らは今にも、わたしを石で打ち殺そうとしています」。驚くことに神さまはこの人々を怒り、裁かれませんでした。むしろ、この問いを待っていたように喜ばれ、神さまはモーセに答えて言われました。「イスラエルの長老数名を伴い、民の前を進め。また、ナイル川を打った杖を持って行くがよい。見よ、わたしはホレブの岩の上であなたの前に立つ。あなたはその岩を打て。そこから水が出て、民は飲むことができる」。モーセは、神様がご自身を現わされる場所であるホレブの岩を、杖で打つように命じられました。その杖のことが「ナイル川を打った杖」と呼ばれています。モーセを通して神様がエジプトに下された十の災いの一つ目がその杖で行われました。モーセがその杖でナイル川を打つとその水が血に変わったのです。神様のご命令によってこの杖で何かを打つ時に、神様の力が表され、救いのみ業が行われるのです。モーセがその杖で岩を打つと、そこから水が湧き出て民はそれを飲むことができたのです。

 この奇跡は、渇きで死にそうになっている民に飲み水が与えられた、ということを超えた意味を持っています。主なる神様がいつもイスラエルの民と共におられることの証しとなったのです。神はどんな時も共にいてくださる神であり、命の水を与え、支え、生かし、導いてくださる神なのです。パウロは、コリントの信徒への手紙一の第10章4節で、この出来事をあげて、「皆が同じ霊的な飲み物を飲みました。彼らが飲んだのは、自分たちに離れずについて来た霊的な岩からでしたが、この岩こそキリストだったのです」と言っています。神様が常にイスラエルの民から離れずに共にいて下さった、その主によって、岩から湧き出した水を与えられた。この岩が指し示しているのがイエス・キリストであり、イエス・キリストこそ、私たちと常に共にいて下さる神であり、荒れ野を旅していく私たちの歩みの中で命の水を常に与え、癒し、支えて生かして下さる方なのだ、と告げています。だからこそ、その後の13節で「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます」ということができるのです。

 イエス様はヨハネによる福音書4章14節で「しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」と言われました。日曜学校が今暗唱聖句としている7章37 、38節で「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」とあります。このことが私たちの人生に大きな意味をもっているのです。

 神さまは主イエス・キリストの十字架によって、私たちを捕えている罪の力を打ち破り、私たちをその奴隷状態から解放して下さいました。そして神様は主イエスを死者の中から復活させ、死の力にも勝利して下さいました。主イエスの十字架と復活によって、罪と死の力に対する神様の恵みの勝利は既に確定しているのです。しかし、救いの完成の時に至るまで、なお残る罪の勢力と私たちは戦っています。神さまは共におられるのか、神様の恵みの勝利などいったいどこにあるのか、ということしかできないのが目に見えるこの世界の現実です。神さまが共にいてくださること、神の恵みの勝利は目に見えず、私たちは信じるしかありません。しかし、私たちから離れずについて来て下さる霊的な岩、キリストを信じるなら、そのキリストからほとばしり出る命の水をいただいて、渇きを癒されながら、約束の地、神の国の完成の時に向かう荒れ野の旅路を歩み、しっかり戦い抜いていくことができるのです。神さまに愛されて、神さまを愛して仕えていく命の水に生かされていくのです。

 先ほど、ローマの信徒への手紙の5章1節~5節を読みました。そこに荒れ野の旅路を歩む私たちにキリストによって与えられている命の道が示されています。人生には確かに苦しみが起こってきます。しかし、共にいてくださる神さまに愛され受け入れられていることを信じ、この神さまが共にいてくださる、神との平和の中に立っていく時に、苦難が決して無駄にならず、その中で与えられていく確かな道があり、希望があります。苦難の中で、神さまに愛され、神さまとの平和に支えられ、忍耐する力を与えられ、それが新しいもの、「練達」を生みだします。この「練達」という言葉はもともとは刻印という言葉です。キリストの愛が刻まれて、キリストの愛に包まれて、その愛に生きるものとされていく。そうして、神の子とされていることの希望、救いを自分にもこの世界にも完成して下さる希望に向かって生きる者とされていきます。

 人生はキリストによる神の愛、神との平和の中に立つことがなければ、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということが神とは関係のない自分を鍛える荒行や道場生活となってしまいます。そうであれば、力が弱った時、いつかは挫折し、行き詰ることになります。しかし、神の愛の中に、神との平和の中にしっかりと立っていく時に私たちは支えられ、恵みによって弱さの中で強くされていきます。そしてキリストによる希望を与えられていく確かな歩みを備えられています。この歩みに人生の失敗も挫折もありません。失望に終わる希望が多い現実の中で、神さまによって与えられている「希望は」、決して「私たちを欺くことがない」のです。決して失望に終わることはないのです。キリストの十字架に私たちのためにへりくだり、ご自分の全てを与え、命を与えてくださる神の愛が表れています。この神の愛がいつも私たちに注がれて止むことはありません。

 この世の荒れ野を歩んでいる私たちです。けれども、キリストが共にいてくださり、命の水を与え、生かし、支え、導いてくださいます。創立61年目の歩みを始めている私たちは、このキリストを信じることから、いつも新しく出発をして、命の水に生かされて、神さまに希望をもって仕えていきたいのです。

広告を非表示にする