東京主僕教会の最近一か月の説教など

礼拝に来ることができなかった方、教会に関心のある方のために牧師が作成しています。どうぞ、礼拝にも来てみてください。

2017年10月8日礼拝説教

「神さまの不思議な救い」マタイ21:33-46    

 

 先日アメリカのラスベカスで銃の乱射事件が起こり、60人近い人々が亡くなり、500人近い人々が負傷しました。私が先週受け取ったアメリカの長老教会のある機関の無料の情報メールでは、不安と恐れ、

 悲しみに包まれている被害にあった人々に寄り添い、その人々のために祈るように、懸命な呼びかけが行われていました。理由は何であれ、一時の感情、自分の欲望のために、多くの人の命がいとも簡単に奪われてしまったことに衝撃と悲しみを覚えざるを得ません。この神の国の譬えにも、殺人、暴力、欲望が渦巻いています。決してハッピー・エンディングではありません。だとするならば、どこに希望があるのでしょうか。不安と恐れに包まれている時代、私たちには心の支え、拠り所が必要であり、私たちには希望が必要です。今日の聖書の御言葉には私たちを支え、生かし、希望となる御言葉がでてきます。それは「家を建てる者が捨てた石、これが隅の親石となった」というイエス様の御言葉です。

 「家を建てる者が捨てた石、これが隅の親石となった」。この御言葉が語られたのは、イエス様を信じない祭司長や民の長老達に葡萄園と農夫の譬え話を語られた後でした。ぶどうはパレスチナ地方の主な産物です。当時のぶどう園は、ぶどうの実を出荷するためのものではありません。採れたぶどうからぶどう酒を造り、それを売るのです。「搾り場」というのはそのぶどう酒を作るための施設です。垣をめぐらすのはぶどうの実を狙ってやってくる動物を防ぐため、「見張りのやぐら」もぶどう畑を荒らす獣や泥棒を見張るためのものでした。主人は、これらの設備を全て整えた上で、それを農夫たちに貸して旅に出たのです。そして、収穫の時期が来たので、分け前を取り立てようとして、使いを送りました。すると、農夫達は使者達を袋叩きにしたり、侮辱を加えたり、石で打ち殺したりしています。ところが、この主人はこの後も一度目と同じような仕方でもっと多くの使いを出しました。そして、最後は息子を使わしますが、殺されてしまうのです。

 この葡萄園の主人の行動はあまりにも馬鹿げている、あり得ない行動に思えます。普通なら、一度目に遣わした使いが殺されてしまうところで、屈強な人々を遣わして、事実を確認し、裁きを下し、二度と同じようなことが起こらないようにするからです。祭司長や長老たちが、「その悪人どもをひどい目にあわして殺し、ぶどう園は他の農夫たちに貸すに違いない」と答えるのも無理はありません。けれども、このぶどう園の主人はそうはしませんでした。それは単に葡萄園の収穫が大事であったから、ということではありません。どんなに裏切られても、この農夫たちがいつか分かってくれると信じていたからです。それほど、この農夫たちが大事だったのです。けれども、農夫たちは、最後に遣わされた主人の息子でさえ、殺してしまいました。

 この譬え話にはこの世界の救いの歴史が凝縮されています。人は神さまによって愛され、創造されて、命を与えられました。そして、神さまから与えられた賜物をもって、神さまに仕え、神さまの恵みを表していきる者とされました。けれども、旧約聖書の昔の時代から、人は繰り返し、神さまに背いていきました。そのイスラエルの人々に、神さまは繰り返し、預言者を使わしていきました。どんなに拒絶され、信頼を裏切られても、人々を信じ、預言者を遣わしました。その最後の預言者が洗礼者ヨハネでした。そして、神さまは愛する御子イエス・キリストをこの世界に遣わされました。けれども、祭司長や律法学者達を始めとして、人々はイエス様を信じて、受け入れることなく、十字架に追いやって死なせてしまったのです。

 当時のユダヤ人の家は石造りです。石を積み上げて壁を造り上げていく時に、当然、この石は使えないというものが出てきます。当時の指導者であった祭司長や民の長老達にとって、イエス様は使えない石であり、捨てた石でした。けれども、全てが終わった、希望はなくなったと思えるところで、神さまはこのイエス様を復活させ、神の救いの土台とされたのです。使えないと思った石が、家を建てる上で一番大切な「隅の親石」、建物の肝心要の石、この石がなければ、建物全体が崩れてしまう、そういう最も大切な石とされて、救いの道を開かれたのです。

 「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった」。この神の不思議な御業は、言い換えれば、神への反抗、その最悪のレベルにある神への反抗という罪を、神はキリストによって全世界をご自分に和解させる神の愛の目的を実現させるための手段に変えられた、ということです。本来ならば、裁かれて放り出されるはずの私たちの罪が、神さまに永遠に結び合わせられる手段となり、神さまとの永遠の結合の絆とされた、ということです。これほど不思議な驚くことはありません。だからこそ、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」。「わが神、わが神、なぜ、わたしをお見捨てになったのですか」、この私たちの苦しみの中で、キリストは私たちと共におられ、私たちの罪をご自分に引き受け、私たちを担い、しっかりととらえて、救いの道を開いてくださっていることを信じることができるのです。どんな時も、どんなものも、この神の愛から私たちを引き離すことはできないのです。「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった」。このキリストにこそ私たちの希望があるのです。

 この譬え話は一説によると、キリスト教会の歴史の中で反ユダヤ主義を促していったとも言われています。それはイエス様を直接十字架につけたのはユダヤの人達であるという理解によっています。けれども、イエス様はユダヤの人のみならず、全ての人々の罪、私たちの罪をご自分に引き受けて、十字架で死なれ、復活されたのです。このイエス様を隅の親石、人生の土台として受け入れ信じていく時、罪に死んでいた者がキリストに結ばれて、神さまの恵みを表す器として用いられていきます。家を建てる者の捨てた石、それはイエス様を表すだけではなく、その石に結ばれている私たち一人一人を指している言葉なのです。惨めな自分、役に立たない自分、どうしようもない自分、罪や弱さに包まれているとしか思えない自分。けれども、神さまはそのような私たちを愛し、私たちをかけがえのないものとして必要とし用いて下さいます。神さまからみれば、私たちには分からなくても、一人一人が大事な石にされています。そして、捨てられているように苦しんでいる全ての人々を、神さまは決して見捨てない、イエス様はその苦しみをご自分のものとして寄り添い共にいてくださいます。イエス様はどんな時も私たちもその人たちも愛し、共にいてくださる。そのことを今日の聖書のみ言葉から私たちは信じることができるのです。どんなものもこのイエス様による神さまの不思議な御業に抵抗し、打ち勝つことはできません。神様はイエス様によってこの御業を確かに行っておられます。世界も私たちもこの不思議な御業に包まれています。

 今日の葡萄園の譬え話で、神さまから全てを与えられ、託された農夫たちが主人を忘れ、全てを「我々のものにしよう」と私有化に走り、自己中心になって、主人の息子を邪魔ものだとした時、人を排斥し、殺してしまうという悲劇が起こっています。私たちは決して葡萄園の主人でも、葡萄園の主人のもともとの子供でもありません。葡萄園は私たちのものではないのです。全ては神さまから貸し与えられているものです。私たちもまたこの世界にあって葡萄園の農夫として歩むように召されています。神さまが私たちに求めていること、「わたしの息子なら敬ってくれるだろう」、神さまが送ってくださったイエス・キリストを受け入れ、敬う者となることです。そこから、父なる神を主人として、父なる神さまから与えられている賜物をもって、神と人のために用いるように、神を愛して人を愛して生きる者に変えられていきます。できる仕方で、私たちも捨てられたような者、見捨てられているような人々、苦しむ人々に目をとめ、祈り、配慮して仕えていく者に変えられます。今朝、キリストを隅の親石として受け入れるのか、あるいはつまずきの石として退けていきるのか、そのことが問われています。この世界の葡萄園の農夫である私たちは、隅の親石であるキリストを敬い、受け入れることから、希望をもって歩んでいきたいのです。

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