東京主僕教会の最近一か月の説教など

礼拝に来ることができなかった方、教会に関心のある方のために牧師が作成しています。どうぞ、礼拝にも来てみてください。

2017年10月8日礼拝説教要約

「神さまの不思議な救い」マタイ21・33-46

 

 この神の国の譬えには殺人、暴力、欲望が渦巻いています。決してハッピー・エンディングではありません。だとするならば、どこに希望があるのでしょうか。不安と恐れに包まれている時代、私たちには心の支え、拠り所が必要であり、私たちには希望が必要です。しかし、今日の聖書の御言葉には私たちを支え、生かし、希望となる御言葉がでてきます。それは「家を建てる者が捨てた石、これが隅の親石となった」という御言葉です。

  葡萄園のすべての施設を整えた主人は、農夫達を雇い、旅に出て、収穫の時期が来たので、分け前を取り立てようと使いを送ります。けれども、この全てを自分たちのものにしようとした農夫たちによって、使いは殺され、最後に送られてきた主人の息子も殺されてしまいます。

 人は神さまによって愛され、創造されて、命を与えられました。そして、神さまから与えられた賜物をもって、神さまに仕え、神さまの恵みを表していきる者とされました。けれども、旧約聖書の昔の時代から、人は繰り返し、神さまに背いていきました。そのイスラエルの人々に、神さまは繰り返し、預言者を使わしていきました。そして、神さまは愛する御子イエス・キリストをこの世界に遣わされました。けれども、祭司長や律法学者達を始めとして、人々はイエス様を信じて、受け入れることなく、十字架に追いやって死なせてしまったのです。

 当時の指導者であった祭司長や民の長老達にとって、イエス様は使えない石であり、捨てた石でした。けれども、全てが終わった、希望はなくなったと思えるところで、神さまはこのイエス様を復活させ、神の救いの土台として、救いの道を開かれたのです。

この神の不思議な御業は、言い換えれば、神への反抗、その最悪のレベルにある神への反抗という罪を、神はキリストによって全世界をご自分に和解させる神の愛の目的を実現させるための手段に変えられた、ということです。本来ならば、裁かれて放り出されるはずの私たちの罪が、神さまに永遠に結び合わせられる手段となり、神さまとの永遠の結合の絆とされた、ということです。これほど不思議な驚くことはありません。だからこそ、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」。「わが神、わが神、なぜ、わたしをお見捨てになったのですか」。この私たちの苦しみの中で、キリストは共におられ、私たちの罪をご自分に引き受け、私たちを担い、しっかりととらえて導いてくださることを信じることができるのです。どんな時も、どんなものも、この神の愛から私たちを引き離すことはできないのです。このキリストに希望があるのです。

 私たちもまたこの世界にあって葡萄園の農夫として歩むように召されています。私たちは決して葡萄園の主人でも、葡萄園の主人のもともとの子供でもありません。葡萄園は私たちのものではないのです。全ては神さまから貸し与えられているものです。「わたしの息子なら敬ってくれるだろう」。神さまが送ってくださったキリストを受け入れ、敬う者となる。そこから、父なる神を主人として、与えられている賜物をもって神と人のために用いるように、神を愛して人を愛して希望をもって生きる者に変えられていくのです。

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