東京主僕教会の最近一か月の説教など

礼拝に来ることができなかった方、教会に関心のある方のために牧師が作成しています。どうぞ、礼拝にも来てみてください。

2017年10月15日礼拝説教

「祝宴の準備をしよう」マタイ22・1-14       

 

 先ほど読んでいただいたマタイによる福音書の譬え話は、読んでいて戸惑いを覚えない人はいないのではないでしょうか。先週に引き続き、暴力、殺人、復讐といった恐ろしい出来事がでてきて、もし、この譬え話の王が神さまであるならば、神さまは恐ろしい神であると思えてしまうからです。

  ある王が王子の結婚の盛大な婚宴を開き、人々を招きました。しかし、家来を使いにだしても、招いていた人々は来ませんでした。そこで、王は再度招いた人々に家来を遣わしますが、招かれていた人々は他にすべきことがあったので断わり、その中の一部の人々はその家来たちに腹を立て、殺してしまったのです。その事態を受けて、王は報復としてこの人々が住む町を焼き払い、滅ぼしてしまうのです。そして、今度は別の町の大通りに家来を遣わし、そこにいる人を誰でも呼び込んで、婚宴は客でいっぱいになっていきます。しかし、王は来て見てみると、婚宴にふさわしい礼服を着ていない人が一人います。その理由だけで、その人の手足を縛って、外の暗闇に放り出したのです。そこまでしなくていいのではないか。あまりにもひどい仕打ちではないかと思えます。この譬え話に出て来る王が、神であるとするならば、神はあまりにも冷酷な神ではないか、と思えるのです。

 でも、注意したいのは、この譬え話は寓喩であり、何かを大事なことを象徴するために、いろいろなことをもちだして語られているということです。先週の20章33節からの譬え話ではこの世界における神さまの救いの歴史が要約されていました。引き続くこの譬え話でも、この世界における神さまの救いの歴史が要約されています。王は父なる神であり、その王子はイエス様です。王から遣わされる家来たちは旧約聖書の時代の預言者達であり、招かれていた人々は旧約のイスラエルの人々を指しています。そして、7節の「王は怒り、軍隊を送って、この人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った」という出来事は、紀元70年、ローマ帝国によってエルサレム神殿が破壊された出来事を表しているようです。このマタイによる福音書はその後の紀元80年代に編集が終わっています。だとするなら、この福音書を最初に聞いた人々は、この箇所から、ユダヤ教キリスト教も迫害される危機的な時代にあって、イザヤ書にあるように終わりの時の祝宴の時に向けて、どのように歩んでいくのか、そのことを聞き取ってきたのです。

 そうだとすると、この聖書のみ言葉で、まず大事な言葉は9節「見かけた者は誰でも婚宴に連れて来なさい」という言葉になります。礼拝が神の招きから始まるように、私たちも今、このように神さまに招かれて、礼拝に来ています。しかし、普通なら、地上の支配者、偉い権力者は「誰でも」とは言いません。資格がつきものです。善人も悪人も、と10節にありますが、善人は招いても、悪人は招きたくない、というのが本音です。けれどもこの王は善人も悪人も、自分はふさわしくないと思う人も婚宴に招くのです。この王の姿に、善人にも悪人にも、どんな人にも太陽を昇らせ、雨を降らせる神さまの愛が示されています。どんなにふさわしくない人間だと思えても、愛し、招き、救いを与えてくださる、それが神さまの恵みなのです。

 週報にも書いていますように、今度の火曜日から木曜日、日本キリスト教会の全国の教会と伝道所から牧師や長老、委員の代表の方々が集い、日本キリスト教会の大会が行われます。それに先立って、明日の月曜日の夕方から3時間程、宗教改革500周年を記念して、宗教改革ジャン・カルヴァンの流れに共に立つ教会として、日本キリスト改革派教会日本キリスト教会の合同の教職者会が行われます。この会は初めての試みです。今後両教会が協力しながら伝道を進めていくための一つの大きな出来事になると思われます。

 宗教改革500周年を記念するこの年にアメリカで出版され、今年の7月に原田浩司先生によって訳されて発行されたドナルド・K・マッキム『宗教改革の問い、宗教改革の答え』(一麦出版社)という本には、このカルヴァンの大事な教えは、(選びの教理などについても)罪人が自らのために自力ではどうすることもできないこと-罪を赦され、イエス・キリストをとおして神との間に信頼と愛の関係を確立すること-を罪人のために自らしてくださる神の主導権にあるのだ、と説明されています。神さまはイエス・キリストを通して、王に招かれても拒み続けた人々のように、神さまを拒み抵抗する私たちの罪を赦し、私たちを神さまの愛する子供、神さまのものとしてくださったのです。

 そのことをハイデルベルク信仰問答の第一問は次のように言っています。問1「生きる時も、死ぬ時も、あなたのただ一つの慰めは何ですか?答 わたしが、からだも魂も、両方とも、生きる時も、死ぬ時も、わたし自身のものではなく、わたしのほんとうの救い主イエス・キリストのものであることです。このお方は、ご自分の貴い血によって、わたしのすべての罪の代償を、完全に支払って下さいました。そしてわたしを、悪魔のすべての力から、救い出し 、今も守って下さいます…」とあります。この第一問は有名な言葉ですが、「慰め」と訳されたドイツ語の本来の意味は「心を置くべき拠り所」という意味を持つ言葉です。「生きるにも死ぬにもあなたのただ一つの拠り所は何か」。私たちが体も魂もすべてを任せることのできる、全幅の信頼を置くことのできる、その拠り所とは何か。それが「わたしがわたし自身のものではなく…、イエス・キリストのものであることです」と答えます。「わたし」という弱くあてにならない者が、わたしの真実な救い主キリストのものになっている。キリストを通して永遠不変の神のものとされている。洗礼はそのことが目に見えるものとして現れる時です。キリストのものとされている。それが決して揺らぐことのない確かな拠り所であり、「慰め」なのです。

 このような話があります。マルティン・ルターという宗教改革者は、死の床に伏す母親に対して「お母さん。天国のイエス様はもう私たちを裁く方ではありません。私たちを救ってくださったお方なのですから、何一つ恐れることはありません。心配することはありません」と慰めています。カルヴァンも生涯の終わりに、遺言書の中で、イエス・キリストの死と苦しみを通してわたしのような者の罪を全く赦してくださった、その神の一方的な恵みを、全身全霊をもって抱きしめる、と書かれているということです。そして、全能の神がわたしの父となってくださり、わたしがその子供とされているという保証以外に寄り頼むべき「慰め」は何一つない、と言うのです。この慰め、拠り所がわたしたちの悲しみや困難を乗り越える力を与えるのです。

 しかし「ふさわしい礼服を着る」ということはどういうことでしょうか。無条件に招かれているのですから、それは何かの資格やふさわしさや立派な行い、善行を積むということではありません。けれども、それでも、祝宴に招かれたものとして必要とされていること。前章の譬え話にもあったように、この祝宴に招いた主人に感謝し、主人を敬っていくということです。キリストのものとしてくださった神さまに感謝し、神さまを敬っていくこと。この「礼服を着る」という言葉は「キリストを着る」と言いかえられてきました。キリストという恵みの晴れ着を身につけて歩んでいく。キリストのものとされている。このキリストのものとして生きる。キリストのものであることを拠り所とし慰めとする。キリストのように神さまに感謝して、神さまを敬って歩んでいくことです。神さまが万事を導いてくださり、神のために生きる喜びを与え、私たちをふさわしく作り変え、終わりの時の祝宴に与らせてくださいます。これ以上の希望はありません。

 「招かれる人は多いが選ばれる人は少ない」。この言葉はいいかえれば、私たちを招いて、キリストのものとしてくださっている神さまが、私たちを礼服を着るものとして造り変え、キリストに似た者に変えてくださる、だから、今、キリストのものとして感謝して敬って歩んでいくようにという招きの言葉なのです。

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