東京主僕教会の最近一か月の説教など

礼拝に来ることができなかった方、教会に関心のある方のために牧師が作成しています。どうぞ、礼拝にも来てみてください。

2017年10月15日主日礼拝説教要約

「祝宴の準備をしよう」マタイ22・1-14


 この譬え話を読んで戸惑いを覚えない人はいないのではないでしょうか。暴力、殺人、復讐といった恐ろしい出来事がでてきて、もしこの譬え話の王が神さまであるならば、神さまは恐ろしい神であると思えてしまうからです。

  でも、注意したいのはこの譬え話は寓喩であり、何かを象徴して表しているということです。王は父なる神であり、その王子はイエス様です。王から遣わされる家来たちは旧約の時代の預言者達であり、招かれていた人々は旧約の人々を指しています。7節の「王は怒り、軍隊を送って、この人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った」という出来事は、紀元70年、ローマ帝国によってエルサレム神殿が破壊された出来事を表しています。だとするならば、その後に読んだ最初の読者達は迫害が起こる危機的な時代にあって、終わりの時の神の国の祝宴の時に向けて、どのように歩んでいくのか、そのことを聞き取ってきたのです。
 そうだとすると、大事な言葉は9節「見かけた者は誰でも婚宴に連れて来なさい」という言葉になります。礼拝が神の招きから始まるように、私たちも今、このように神さまに招かれて、礼拝に来ています。しかし、善人も悪人も招かれています。悪人も、自分はふさわしくないと思う人でさえ、婚宴に招くのです。この王の姿に、善人にも悪人にも、どんな人にも太陽を昇らせ、雨を降らせる神さまの愛が示されています。どんなにふさわしくない人間だと思えても、愛し、招き、救いを与えてくださる、それが神さまの恵みなのです。
 今年は宗教改革500周年の記念の年ですが、宗教改革ジャン・カルヴァンの大事な教えは、罪人が自らのために自力ではどうすることもできないこと-罪を赦され、イエス・キリストをとおして神との間に信頼と愛の関係を確立すること-を罪人のために自らしてくださる神の主導権にあるのだ、と説明されています。神さまはイエス・キリストを通して、王に招かれても拒み続けた人々のように、神さまを拒み抵抗する私たちの罪を赦し、私たちを神さまの愛する子供、神さまのものとしてくださったのです。
ハイデルベルク信仰問答の第一問は次のように言っています。問1「生きる時も、死ぬ時も、あなたのただ一つの慰めは何ですか?答 わたしが、からだも魂も、両方とも、生きる時も、死ぬ時も、わたし自身のものではなく、わたしのほんとうの救い主イエス・キリストのものであることです。「わたし」という弱くあてにならない者が、わたしの真実な救い主キリストのものになっている。キリストを通して永遠不変の神のものとされている。それが決して揺らぐことのない確かな拠り所であり、「慰め」なのです。それが困難と悲しみを乗り越える力となるのです。
 「ふさわしい礼服を着る」ということはこの祝宴に招いた主人に感謝し、主人を敬っていくということです。キリストのものとしてくださった神さまに感謝し、神さまを敬っていくこと。私たちを招いて、キリストのものとしてくださっている神さまが、私たちを礼服を着るものとして造り変え、キリストに似た者に変えてくださる。だから、今、終わりの時の祝宴に備えて、キリストのものとされていることに父なる神に感謝して、敬って歩んでいくように招かれているのです。