東京主僕教会の最近一か月の説教など

礼拝に来ることができなかった方、教会に関心のある方のために牧師が作成しています。どうぞ、礼拝にも来てみてください。

2017年10月22日礼拝説教

「神のものは神に返しなさい」マタイ22・15-22         

 

 16世紀の終わりから17世紀にかけて活躍したウイリアムシェークスピアの作品に『リチャード3世』という有名な史劇があります。このリチャード3世は、15世紀イギリスのヨーク朝最後の王であり、狡猾で残忍な人物として描かれています。2012年、このリチャード3世の頭蓋骨などの遺体が発掘されました。そして、DNA鑑定

 が行われると、その正しい子孫が、それまでの公式の家系図の子孫ではなかったことが分かりました。そして2015年アメリカに住むソフトウエアのエンジニアをしている男性であることが判明したと報道されました。この人はそれまではまさか自分がリチャード3世の子孫であるとはつゆ知らず、大変驚きましたが、この人はそれ以降、王の親族と共にリチャード3世の名誉回復のための運動に関わっているようです。

 もし、自分が、皆さんが、この男性のように、突然、昔の有名な王の子孫である、ということが判明したら、どうでしょうか。家の部屋の中にいても背筋をピンと伸ばして歩くようになる。奥さんを王妃や女王のように見なして接するようになる。飼っている動物、ペットでさえ、「王子」、「プリンス」と呼ぶようになるかもしれません。今日のマタイによる福音書では、この人のように、私たちも王の血筋に連なっている一人一人であることを教えられています。

 当時のユダヤの宗教的な指導者であるファリサイ派の人々は、イエス様の言葉じりをとらえて、罠にかけるために質問しました。「皇帝に税金を収めるのは、律法に適っているでしょうか。適っていないでしょうか」。もし、律法にかなっていると答えるなら、ユダヤを占領しているローマ帝国に味方していることになり、イエス様は人々の反感を買うことになります。もし、律法にかなっていないと答えるなら、ローマ帝国への反乱罪として訴えられ、逮捕されることになります。「適っている」と答えることは、裏切り者、売国奴と呼ばれる危険があり、「適っていない」と答えることは、政治的なトラブルメーカーと呼ばれる危険がありました。この問いは切り抜けることの難しい難問でした。

 イエス様はこの問いに答える前に、人々に「税金に納めるお金を見せ」るように言われ、「これは誰の肖像と銘か」と問われます。この銀貨はローマの銀貨であり、ユダヤの銀貨ではありません。この銀貨に刻まれているのは、旧約聖書の歴史に出て来る有名な人物ではありません。アブラハムモーセダビデなどの顔ではありません。その銀貨に刻まれているのは、ユダヤの人々にとって外国人であるローマ皇帝の顔であり、明らかにユダヤの人々にとっては、自分たちの国、自分たちの土地がローマ帝国によって力づくで占領されており、従わないのなら殺されてしまうことを思い起こさせるものでした。銀貨の肖像は誇りで満たすのではなく、怒りを与えるものだったのです。

 デナリオン銀貨に刻まれていたのは、当時の皇帝ティベリウスの顔、そして「尊厳なる神アウグスツスの尊厳なる子皇帝ティベリウス」という文字です。イエス様は熱心な信仰をもつユダヤ人でした。信仰深いユダヤ人なら、決してローマ皇帝を「神」と呼んだり、「神の子」と呼んだりすることはしたくなかったはずです。「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である」。熱心のユダヤ人であるなら、昔から今でもこの申命記の言葉を繰り返し聞いているのです。だとするならば、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」、このイエス様の言葉はどのような意味があるのでしょうか。

 イエス様は皇帝は神と並ぶ存在であると言われているのでしょうか。ご自身がユダヤ人であったイエス様がそのように考えたとは思えません。それでは、人生には皇帝に従うべき部分と神に従うべき部分の二つの領域があると言われているのでしょうか。ここでは神に忠誠心を置き、ここでは皇帝に忠誠心を置くように、と言われているのでしょうか。しかし、そうではなく、信じる心を二つに分けるように、と言われているのではなく、優先順位をつけるように、と言われているのです。

 「これは誰の肖像と銘か」。この問いは深いところで、聖書で昔の時代から大事にされてきたこと、繰り返し思い出すことが必要なことが問われているのです。テルトリアヌスという2世紀の教会指導者は、この箇所について、次のように言いました。「皇帝の像が刻まれている皇帝のものは、皇帝に返しなさい。しかし、神の像が刻まれている全ての人は神に返しなさい」。神の像が刻まれているもの、それは私たち一人一人です。イエス様にとって、手元にある銀貨を触れば思い出すのは、その銀貨に刻まれているローマ皇帝ではなく、それ以上に大事なこと、ご自分も、私たち一人一人も、神にかたどって創造されている、神の像が刻印されている、ということなのです。

 聖書には創世記1章27節で次のように言われています。「神はご自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された」。人は神にかたどって造られています。私たち一人一人は神にかたどって創造されています。昔のコインに皇帝の像が刻まれているように、私たちに神の像が押されているのです。どんなに罪深く、どんなに汚れた自分に思えても、どんなに意味のない、どんなに空しい存在に思えたとしても、神の像が刻まれているのです。真の神の子、真の神の像であるイエス・キリストが、私たちを罪から贖い、私たちをご自分のもの、神のものとしてくださり、私たちに神の像を回復してくださいました。だとするならば、私たちは、どのように神のものである私たちを神に返すのでしょうか。

 先日の日本キリスト教会大会前の日本キリスト改革派教会の合同の教職者会の開会礼拝でも大会の開会礼拝でも歌われた讃美歌はジュネーブ詩編歌の24番でした。詩編の24編を歌ったものですが、その1節に「地とそこに満ちるもの/世界とそこに住むものは神のもの」とあります。聖書で昔から大事にされてきた考え方です。全てのものは神のものであり、私たちも一人一人神のものです。

 全ては神さまから貸し与えられています。私たちの命も、家族も、私たちの吸っている空気も、私たちの飲んでいる水も、土地から収穫している食べ物も、自分で稼いで使っているお金も、聖書によるならば、どれ一つとして私たち自身のものではありません。実際に私たちは所有していないのです。全ては神さまのものです。一つ一つは全て、地上で生きている間、神さまから貸し与えられ、託されているものです。大事なことは、全てのものを神さまから貸し与えられ、託されていることを受け入れることであり、その託されているものを神さまのために用いていくこと、神さまの愛の配慮をもって、神と人、この世界に仕えていくことです。神のものを神に返していく。それは神の賜物の管理人(スチュワード)として仕えるということです。このスチュワードシップについて、カンバーランド長老教会信仰告白に次のような言葉があります。

 「クリスチャン・スチュワードシップ(キリスト者の管理の務め)は、すべての命と創造物は神から委託されたものであり、神の栄光と奉仕のために用いられるべきことを承認することである。それは人間の技能や力を創造的に用いるだけではなく、天然資源を保護し、責任をもって用いることである。これらの神からの賜物は、全ての人、特に貧しい人々と分かち合うものである。クリスチャン・スチュワードシップの動機は神の豊かな愛と憐れみに対する感謝からくる。それには神からいただくあらゆる良い賜物をすべての者と分かち合いたいという願いが伴う。神は人類に様々な賜物を与えておられる。それは各人に与えられていて、その使い道についてはその人に責任がある。神はすべての人が豊かになるため、各々の賜物を互いに分かち合うことを望んでおられる。」

 神のものを神に返していく。それは自分を神さまに委ねていくことから始まります。自分で自分を所有していると思っている時、不安ばかりがあります。しかし、神さまはイエス様を通して私たちの存在を神様のものとして下さいました。神さまが私たちの命を所有し、守り、永遠の命の完成へと導いてくださいます。わたしたちをご自分のものとして、いまも支えてくださっています。その恵みを信じる時、地上の富に心を奪われることなく、不安なく歩むことが出来ます。今朝、自分が王の子孫であることを知った人のように、私たちも一人一人が神の像を押されている一人一人であり、神のものであることを、イエス様は私たちに教えて下さっています。このことに希望をもって歩んでいきたいと思います。

広告を非表示にする