東京主僕教会の最近一か月の説教など

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2017年10月29日礼拝説教

「罪を赦された罪人」ローマ3・21-26          2017.10.29

 

 多くの教会では、10月31日に最も近い今日の日曜日を、マルティン・ルター宗教改革を覚え、宗教改革記念礼拝として守っています。500年前の1517年10月31日、マルティン・ルターがドイツのヴィッテンベルクの教会に「九十五箇条の提題」を掲げたことから、宗教改革の大きな運動が本格的に始まりました。

  当時の中世カトリック教会では贖宥状、免罪符が発行され売られていました。実際にはその収入は教会建築などにあてられていましたが、それを買えば罪を赦され、救われると勧められたのです。そして、そのことは貧しい人々の財政を圧迫するものでした。それに対して、ルターは信仰義認を主張しました。人が義とされ、罪赦されて救われるのはキリストへの信仰による。ルターを始めとした宗教改革者達は、それが聖書に書いてあることであり、キリストによって与えられている神の恵みであり、この恵みを喜び賛美して、神の栄光のために生きるのだと主張しました。このような宗教改革の教えは「恵みのみ」「信仰のみ」「キリストのみ」「聖書のみ」「神の栄光のみ」として説明されます。それが当時の教会の制度を変え、礼拝を変え、人々の信仰と人生を変えていきました。それは人はどのように救われるのか、神はどのように愛して下さっているのかの理解を改革し、人生の意義を変えていくものでした。

 私たちの教会はルターより一世代後のジャン・カルヴァンの改革教会の伝統に立つ教会ですが、宗教改革のこの大きな流れの中で生みだされた教会であり、この信仰義認を始めとした教えは私たちにも大事な教えです。これらを考え学ぶことができるのがローマの信徒への手紙3章21節以下の所です。

 21節で「ところが今や」、「律法とは関係なく、しかも、律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました」。「律法とは関係なく」、この言葉がなければ、ユダヤ人ではない異邦人、私たちは救われません。ユダヤ人だけが救われることになります。1章から直前までを読んでみると、パウロが見たユダヤ人の中には救われるのは旧約の十戒を中心とした律法を守るユダヤ人だけだと考える人々がいたことが分かります。しかし、そうであるなら、誰も律法を完全に守ることはできず、神さまに裁かれ滅びるほかありません。正しい人は一人もいないのです。しかし、ところが今や、救いはユダヤ人だけでなく、異邦人にも開かれました。そして、その救いは「律法と預言者によって」、昔から変わることがなかった神さまの約束の御心を実現することによって起こったのです。

 わたしたちを罪深いままで義として正しい者として受け入れ、神の愛する子供として救ってくださる。そこには「何の差別もありません」。教会に来て礼拝に出席する、信仰をもって生活を始める、洗礼を受けて聖餐にあずかっていく。そのことについて、これまでどんな人生を歩んで来たか、人種は何か、ユダヤ人であるか否か、どんな性格であり、どんな身体の特徴をもっているのか。どんな仕事をしているか。これまで何か良いことをしたのかどうか、若い人か高齢の人なのか。そのようなことは一切問われません。一切関係ありません。「イエス・キリストを信じることにより与えられる神の義」。神さまは、イエス様を信じる者をだれでも義として、罪を赦し、救ってくださるのです。

 しかし、ルター自身がこのみ言葉の確信に達するまでに長い年月に及ぶ苦悩の日々がありました。若き日に修道院に入った彼は、その規律に忠実に従い、律法の定める「義」に達するために日夜努力したのですが、努力すればするほど、自分の罪深さと弱さを思い知らされました。私たちにも生活の中で何かしら信仰について、自分が信じていることについて、自分について、これでいいのか、という思い悩むことがあります。私たちの生きている時代にも、形を変えた功績主義、業績主義、成績主義、律法主義があり、私たちもそれにしばしば支配されてしまうからです。修道士であったルターは、はじめ「〈神の義〉という言葉を憎んだ」といいます。「もし誰かが私に略奪を働いても、私は〈神の義〉という言葉を聞くときほど苦しむことはなかったであろう」と書いています。しかし、ルターがそのことで暗い顔をしていた時、その時の修道院長がルターの悩みに気づき、ルターに「君は自分の弱さだけを見つめていてはいけない。キリストと呼ばれるあの方を見上げるようにしなさい」と忠告したのです。そのことがきっかけとなり、ルターは詩編やローマ書をさらに研究し、キリストを見上げるようになり、キリストを信じることによって救われるという福音の真理を発見していきました。救いは、神の義は、自分の中に見出すのではなく、自分の外から、キリストから与えられるのです。

 23節から24節にはキリストを見上げた時に示される福音の世界が告げられています。「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです」。「贖い」という言葉は聖書を理解し、信仰をもって生きる時に大事な言葉です。旧約聖書では、借金を返済できず奴隷となった親族を買い戻すように、この言葉は何かを代償として差し出して「買い戻す」というのが元々の意味です。神さまは神の御子イエス・キリストの十字架の死という代償によって、私たちを罪の支配から神様の支配へと、死から命へと、私たちを買い戻し、私たちを取り戻しご自分のものとしてくださったのです。

 旧約聖書には罪を犯したときにどうするかが書かれています。罪を犯したとき、罪の赦しを得るためには、動物をいけにえとして献げ、罪を償うことが命じられていました。本来は自分の命をささげて罪の償いをすべきなのですが、自分の命をささげるわけにはいきません。それほど罪は重いのです。しかし、それでは人生が終わりとなります。そこで動物のいけにえを何度も献げ、動物のいのちをもって罪の償いとしたのです。しかし、キリストの死は、私たちの罪を償い、贖うための一度限りの死でした。このキリストの十字架という尊い代償を、私たちは無償で、タダで与えられ、神の栄光を受けています。私たちがそれに見合う何か善いことをしたからではありません。神の恵みとして、ただでいただいているのです。これがルターが発見した聖書の福音なのです。

 もし、東京湾、大海の真ん中で、わたしたちが、自分が大きな船に乗っていて、何かのはずみで海に落ちてしまったら、その船の船長はどうするでしょうか。その船長は「自分で自力で岸まで泳いでいきなさい」と言うでしょうか。あるいは「自分で船まで泳ぎ、這い上がりなさい」と言うでしょうか。多分そうは言わないと思います。救命用の浮輪を投げてくれると思います。でも、もし、その時、「あなたが、私に対して、あなた自身が、自分が本当に命を救われるに価する人であることを証明できたら、私は浮輪を投げますよ」と言ったらどうでしょう。自分にどんなに誇れるものがあると思っても、人にとっては価値観は様々であり、人によって考え方は様々です。自分が考えるようにその人が考えるとは限りません。それを証明しようと思っても、他の人がすぐに納得できるように証明することは難しく諦めるほかないように思えます。しかし、ありがたいことに、普通なら、船長はそうは言わず、すぐに浮輪を投げ、自分がそれを掴み、身を託したら、船にいるみんなでそのロープを引っ張り、船に引き上げてくれるはずです。

 同じように、神さまが私たちに浮輪を投げ、救ってくださるのは、ただ私たちを愛して下さっているから、という理由しかありません。イエス様を信じるだけで一切の罪を赦され、救われる。しかもそのための手続き、御子の十字架の犠牲の死、そのすべてを神様がしてくださいました。私たちに対する神様の愛は徹底的、私たちの常識の尺度をはるかに超えているのです。

 今日の3章22節と26節に「イエス・キリストを信じる」、「イエスを信じる」という言葉が出てきます。それぞれ「イエス・キリストの信仰」、「イエスの信仰」と訳せる言葉です。イエスを信じること、イエスの信仰ということ、そのどちらも私たちの救いにとって大事なことです。イエスの信仰によって義とされる。イエスが信仰をもって行ったこと、イエスの御業に包まれている。このイエスの御業によって義とされるのです。キリストが神を信じて行ったこと。私たちのために苦しまれ、十字架につけられ、復活されたこと。その全ては、私たちを義としていくための、私たちに対する神の愛から起こっています。この神の愛の力に、死の力もどんなものも打ち勝つことはできません。浮輪を与えられ、それをつかむように、信仰も神さまから恵みとして与えられるのです。

 ルターはこの神さまの愛の福音を知り、罪赦された罪人として救われていることに平安を与えられ、この神を愛し、全ての人に仕える僕として神の栄光のために仕えることを願うようになりました。それが私たちに与えられている喜びなのです。私たちは次週の礼拝で召天者記念礼拝を迎え、その後、11月19日の特別礼拝に向けて特に伝道のために祈り仕えていく時を迎えていきます。信仰の先達たちも喜びをもって受け取ったこの神の愛の福音を確認し、この神の愛の福音を伝えていくことができるように祈りたいと思います。そして、この恵みを感謝して、神様を信頼し、神さまに従う者として、この一週もそれぞれ遣わされている場において、神をほめたたえて、神の愛を携えて、神の栄光のために歩んでいきたいと思います。

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