東京主僕教会の最近一か月の説教など

礼拝に来ることができなかった方、教会に関心のある方のために牧師が作成しています。どうぞ、礼拝にも来てみてください。

2017年10月29日礼拝説教要約

「罪赦された罪人」ローマ3・21-26

 「人が義とされ、救われるのは、キリストへの信仰による」というルターの信仰義認の教えをはじめとして、宗教改革者達は「恵みのみ」「信仰のみ」「キリストのみ」「聖書のみ」「神の栄光のみ」を教えました。それが教会を変え、礼拝を変え、人々の人生を変え、人生の確信と喜びを与えていきました。

  ローマ書ではその直前まで、正しい人は一人もいない、誰もが神さまに裁かれ滅びるほかないことが言われてきました。しかし、ところが今や、救いはユダヤ人だけでなく、異邦人、私たちにも開かれました。昔から変わることがなかった神さまの約束の御心が実現されたのです。

 わたしたちを罪深いままで義として正しい者として受け入れ、神の愛する子供として救ってくださる。そこには「何の差別もありません」。教会に来て礼拝に出席する、信仰をもって生活を始める、洗礼を受けて聖餐にあずかっていく。それは、これまでどんな人生を歩んで来たか、何人であるのかユダヤ人であるか否か、どんな性格の人であり、どんな特徴をもっているのか。どんな仕事をしているか。これまで何か良いことをしたのかどうか、若い人か高齢の人か、そのようなことは一切問われません。神さまは、イエス様を信じる者をだれでも義として、罪を赦し、救ってくださるのです。

 私たちにも生活の中で何かしら信仰について、自分について、これでいいのか、という思い悩むことがあります。私たちの生きている時代にも、形を変えた功績主義、業績主義、成績主義、律法主義があり、私たちもそれにしばしば支配され悩み、自分の弱さ、足りなさ、罪深さ、弱さに悩まされます。しかし、「君は自分の弱さだけを見つめていてはいけない。キリストと呼ばれるあの方を見上げるようにしなさい」。救いは、神の義は、自分の中から生まれるのではなく、自分の外から、キリストから与えられるのです。

 「贖い」という言葉は聖書を理解し、信仰をもって生きる時に大事な言葉です。旧約聖書では、借金を返済できず奴隷となった親族を買い戻すように、この言葉は何かを代償として差し出して「買い戻す」というのが元々の意味です。神さまは神の御子イエス・キリストの十字架の死という代償によって、私たちを罪の支配から神様の支配へと、死から命へと、私たちを買い戻し、私たちを取り戻しご自分のものとしてくださったのです。キリストの死は、私たちの罪を償い、贖うための一度限りの死でした。このキリストの十字架という尊い代償を、私たちは無償で与えられ、神の栄光を受けています。私たちがそれに見合う何か善いことをしたからではありません。神の恵みとして、ただでいただいているのです。

 神さまが私たちを救ってくださるのは、ただ私たちを愛して下さっているからという理由しかありません。イエス様の私たちのための救いの御業に、私たちを義としていくための、私たちに対する神の大きな愛が示されています。この神の愛の力に、死の力もどんなものも打ち勝つことはできません。神さまに愛されて、「罪赦された罪人」として救われている。そのことに平安を与えられ、この神を愛し、全ての人に仕える僕として、一人一人遣わされている場所で、神の栄光のために仕えていくのです。

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