東京主僕教会の最近一か月の説教など

礼拝に来ることができなかった方、教会に関心のある方のために牧師が作成しています。どうぞ、礼拝にも来てみてください。

2017年11月5日主日礼拝説教

「私たちの希望の光」詩編34編2-11,23節           

 

 本日の礼拝は召天者記念礼拝です。東京主僕教会の教会員として天に召された方々、また教会員のご家族で、教会で葬儀が行なわれた方々のことを覚え、ご遺族をお招きして、この礼拝を守っています。あるいは、皆さんの中には教会員の方ではない方で、召された愛する方々を心に覚えておられる方もいることと思います。

  先に天に召された方々のことを覚えて守るこの礼拝は、普通の社会の人々の感覚で言えば、この方々の供養をし、冥福を祈るために行なわれている、と思われるかもしれません。しかし、キリスト教の教会では、供養をしたり、冥福を祈ることはいたしません。冥福とは死後の幸福ということですが、教会では召された方々の死後の幸福を祈ったりしてきたことはありません。

 それはもちろん、召された後はどうでもよいのだ、ということではありません。そうではなく、信仰をもって、主イエス・キリストを信じ、教会に連なる者として、天に召された方々は、既にキリストのもとに迎えられ、キリストのものとして、今これ以上のものはない幸い、キリストと共にあり、今神共にある幸いを与えられているからです。

 洗礼を受けておられなかった方が召された時に教会で葬儀を行う時も、その人のことを主にお委ねし、お任せして葬儀が行なわれます。教会はその方々もキリストのものとされており、地上の苦しみや悲しみから解き放たれ、今主と共にある平安を与えられているのだと信じているからです。

 このように先に召された方々を覚える時、今神と共にある平安を与えられているのであるならば、むしろ今、慰め、励ましが必要なのは地上に残されている私たちです。地上に残された私たちが、先に召された方々に与えられてきた神さまの恵みによって、慰めと励ましを与えられていく。それが召天者記念礼拝です。今、聖書のみ言葉から先に召された方々も与えられてきた神さまの恵みを分かち合い、私たちもその恵みによる慰めと励ましを与えられたいと思います。

 先ほど読みました詩編34編のみ言葉は、このような時、先に召された、地上の生涯を信仰をもって生きられた方々の生涯が示されている聖書の言葉として読まれてきた聖書の言葉です。この詩編34編のはじまり、今日は読んでいませんが、直前の1節に「ダビデの詩。ダビデがアビメレクの前で狂気の人を装い、追放された時」とあります。この詩は旧約聖書にでてくる有名なダビデ王が正式に王になる前に、先の王サウルに命を狙われて、ダビデが逃亡生活を余儀なくされていた時に歌ったものであると書かれています。逃亡先で、命の危機にさらされて人々の前で狂気の人を装わなければならない。実際に気がおかしくなってしまうような苦境に立たされたのです。

 私たちの人生にも命の危機にさらされる、気がおかしくなってしまう苦境に立たされる時があります。ダビデは、命の危機にさらされる大変な苦境に立たされたときに、この詩を作り、神さまを讃える感謝の歌を歌ったというのです。

 しかしたとえダビデにどのような時も神を賛美するのだという強い思いがあったとしても、自分ならこのような大変な時に果たして、理由なく賛美の歌を歌えるだろうかと思えます。そのような時、心の中で恨み辛みをあげつらい、運命を呪い、神を呪うような歌を歌ってもおかしくないのです。実際、旧約聖書詩編には多くの数の嘆きの歌があります。苦しみの中で神に率直に不満を訴え、嘆き、悲しんでいるのです。どのような時も、常に、神を賛美する、ということは、不可能に思えるのです。

 けれども、この詩編を読んでいくと、一つ分かることがあります。それは、ダビデが苦しみの中で5「主に求めると、主は答えてくださった」、神さまに祈っていった時に発見したことがある。それが「脅かすものから常に救い出してくださった」こと。そのことが8節で「主の使いはその周りに陣をしき、主を畏れる人を守り助けてくださった」と説明されていることです。

 ダビデが、この詩人が大変な苦境の中で、神さまを賛美することができたのは、苦しみのとき、苦難の連続の中で、常に、神さまが共にいてくださることを見出し、神さまが自分を決して見捨てているのではなく、神さまがいつも苦しみの中で共にいてくださり、守り、支え、助けてくださっている。そのことを見出してきたからです。そのことで、苦難の中で救われてきたのだと歌っているのです。

 このことはマタイによる福音書5章のイエス様が語られた「山上の説教」からも読むことができます。山上の説教には詩編34編のダビデが自分を呼ぶ「貧しい人」と言う言葉と同じような言葉でてきます。3節「心の貧しい人は幸いである」。この言葉を聞くと、疑問に思う方もおられると思います。このような言葉を聞くと、実際の生活は貧しくても、心は貧しくない、だから大丈夫だ。たとえ貧しくても、心が豊かだから、愛や優しさも少しはあるし、心が豊かだから誇りをもって生きることが出来る。だから幸いだ。そう考えてしまいます。

 けれども、心が豊かなのではなく、心が貧しいから幸いなのだ、と言われるのです。この「貧しい」という言葉は、全く何も持っていない、乞食をして、物乞いをして生きるしかない、という意味です。ですから、「心の貧しい」というのは、心の中に何も頼るものがなく、もう自分では立っていくことが出来ないほどに弱り果て、困り果ててしまっている。どんなに求めても心が満たされないことをさしています。しかし、そうであるならば、どうしてそのような人が幸いなのでしょうか。

 それは「天の国はその人たちのものである」、そのような私たちに神さまは無条件に天の国を与えてくださるからです。「天の国」とは神の救い、神による完全な救いです。神さまは私たちに神の独り子であるイエス・キリストを与えてくださいました。御子イエス・キリストが、心の貧しい者である私たちのために、人となり、私たちの心の貧しさも、罪も、死も、全てご自分の身に背負って、ご自分のものとして、十字架にかかって死んで下さいました。このことによって、私たちの罪は赦され、神共にいます永遠の命を与えられました。そして、私たちに救いを完成してくださいます。

 たとえ、何も持っていなくても、どんなに貧しい自分だと思えても、神さまは私たちを愛してくださっています。わたしたちを背負い、私たちを守り、支え、私たちを導いてくださっています。だから、イエス様は、あなたがたは幸いである、安心してよいのだ、と言われるのです。

 私たちは、聖書によれば、良い人になって、心の豊かな人になって、幸いになっていくのではありません。私たちは自分で手に入れていくもので幸いになるのではないのです。そのように自分の力で手に入れてきたと思える幸いがどんなにもろいものなのか、私たちは知っています。それは病気一つで崩れてしまう幸いです。しかし、神さまはそのようなもろい幸いではなく、どんなものも、死でさえも打ち破ることの出来ない幸いを与えて下さっています。それがイエス様と共にある幸いであり、神の国・天の国に生きる幸い、神様との親しい交わりの中に生かされる幸いなのです。どんなものもこの幸いを壊すことは出来ません。この幸いこそ、詩編34編で、「味わい、見よ、主の恵み深さを。いかに幸いなことか、御もとに身を寄せる人は」(9節)、詩人が伝えたい幸いなのです。イエス様と共にあり、父なる神と共にある幸い。この幸いこそ、先に召された方々が、地上の人生の歩みのなかで、困難の連続といえる人生の歩みの中で、祈り求めた時に確かに見出していった神さまの恵みです。

 この詩編の34編6節に印象的な言葉が出てきます。「主を仰ぎ見る人は光と輝き、辱めに顔を伏せることはない」。よく愛唱聖句としてあげられる聖書のみ言葉の一つです。イエス様を仰ぎ、神さまから与えられている愛と恵み、幸いを知る時、光と輝きます。神から与えられている愛の光、神さまの栄光を反射して、映し出していく僕となり、「光と輝き」、「光の子」とされていくのです。この光は、詩人が振り返っているように、災いや苦難という闇の中でさえ輝いています。私たちを愛し、いつも共にいまし照らす神こそ、私たちの希望の光なのです。自分を包む闇、この世の闇、自分自身の闇が深ければ深いほど、この光は一層輝いています。先に召された方々は、この光に照らされて最後まで光と輝き、神の光の現れる器として光の子として用いられていきました。私たちも、私たちの人生の物語も、この光と輝く人生の物語に招かれ、連なっているのです。

 4節「主をたたえよ」という言葉は主を大きくするという言葉です。先に召された方々は折々に神を仰ぎ、いつも共にいて守ってくださる神さまの愛を大きく見つめていきました。そして、この神さまに守られ、支えられ、この世にあって光と輝き、神さまの祝福のなかを歩んでいかれました。私たちもその道を歩んでゆきたいと願います。