東京主僕教会の最近一か月の説教など

礼拝に来ることができなかった方、教会に関心のある方のために牧師が作成しています。どうぞ、礼拝にも来てみてください。

2017年11月5日主日礼拝説教要約

2017年11月5日 召天者記念礼拝 説教要約

「私たちの希望の光」詩編34編2-11、23節

 

 詩編34編には地上の生涯を信仰をもって生きられた方々の生涯が示されています。ダビデが逃亡生活を余儀なくされ、命の危機にさらされた時、人々の前で狂気の人を装わなければなりませんでした。実際気がおかしくなってしまうような苦境に立たされたのです。しかし、そのような時、どうして神を賛美することができるでしょうか。むしろ心の中で恨み辛みをあげつらい、運命を呪い、神を呪うような歌を歌ってもおかしくありません。どのような時も、常に、神を賛美することは不可能に思えるのです。

  けれども、この詩編を読んでいくと、一つ分かることがあります。それはダビデが苦しみの中で5「主に求めると、主は答えてくださった」、神さまに祈っていった時に発見したことがあるのです。それが「脅かすものから常に救い出してくださった」こと。そのことが8節で「主の使いはその周りに陣をしき、主を畏れる人を守り助けてくださった」と説明されているのです。

 ダビデが大変な苦境の中で、神さまを賛美することができたのは、苦しみのとき、苦難の連続の中で、常に神さまが共にいてくださることを見出し、神さまが自分を決して見捨てているのではなく、神さまがいつも苦しみの中で共にいてくださり、守り、支え、助けてくださっている。そのことを見出してきたからです。そのことで苦難の中で救われてきたのだと歌っているのです。

 この詩編の詩人は自分を「貧しい人」と言いますが、マタイ5章3節にも「心の貧しい人は幸いである」とあります。心の中に何も頼るものがなく、もう自分では立っていくことが出来ないほどに弱り果て、困り果ててしまっている人。どうしてそのような人が幸いなのでしょうか。

 それは「天の国はその人たちのものである」、そのような私たちに神さまは無条件に天の国を与えてくださり、神の救い、を与えてくださるからです。イエス・キリストは私たちのために、人となり、私たちの心の貧しさも、罪も、死も、全てご自分の身に背負って、ご自分のものとして、十字架にかかって死んで下さいました。このことによって、私たちの罪は赦され、神共にいます永遠の命を与えられました。そして、私たちに救いを完成してくださいます。

 たとえ、何も持っていなくても、どんなに貧しい自分だと思えても、神さまは私たちを愛してくださっています。わたしたちを背負い、私たちを守り、支え、私たちを導いてくださっています。だから、イエス様は「あなたがたは幸いである、安心してください」と言われるのです。この神の国・天の国に生きる幸い、神様との親しい交わり、命の中に生かされる幸いはどんなものも壊すことは出来ません。この幸いこそ、「味わい、見よ、主の恵み深さを。いかに幸いなことか、御もとに身を寄せる人は」と詩人が伝えたい幸いであり、先に召された方々が、困難の連続といえる人生の歩みの中で、祈り求めて確かに見出した幸いであり、私たちに与えられている幸いなのです。

 この神の光こそどんな闇の中でも輝いている私たちの希望の光です。先に召された方々は神を仰ぎ、この神さまの愛、光を映し出していく僕、神の光の子として最後まで用いられていきました。私たちも、この光と輝く、神による人生の物語に招かれ、連なっているのです。