東京主僕教会の最近一か月の説教など

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2017年11月12日主日礼拝説教

ともしびを高くかかげて」マタイ25・1-13        2017.11.12

 

 今日のマタイによる福音書の25章で、イエス様は「いつも目を覚ましていなさい」と言われています。言い換えると、「いつも備えていなさい」いうことです。似たような言葉で「備えよ、常に(Be Prepared)」という言葉があります。ボーイスカウト

 

 モットーとして、世界的に有名な言葉です。「備えよ、常に」。よいスカウトであるならば、起こりうるすべてに対処していく備えをいつもしていなければなりません。例えば、キャンプ旅行に行く時には、起こりうるあらゆる事態を考えて、それに必要な装備を全てもっていきます。そして、もし夜の間キャンプをしようとするのなら、闇の中でもよく見えるように、ランタンやライト、そしてそのための燃料や電池の準備を抜かりなくしていきます。

 「備えよ、常に」。この言葉は、いつ、いかなる場面で、いかなる事態が起きようとも、あらゆる想定の中で事を運べば、大事にいたることなく、難関を乗り越えられる、と励ましの言葉でもあります。特に災害が起こってくるこの時代に、日常の備えの言葉として、この言葉はますますよく使われているように思います。今日の聖書のイエス様のみ言葉も、私たちがいついかなる場面に遭遇しようとも、いかなる事態が起きようとも、そのことを乗り越えていく大きな力となるように語られた励ましの言葉なのです。

 「十人のおとめ」という見出しのついた譬え話には、ユダヤにおける結婚の祝宴をもとにした話がでてきます。ここを読むと、花嫁がでてこないので、ここに出て来る「十人のおとめ」が花嫁であると、うっかり思って読んでしまう時がありますが、そうではないようです。この人々は花嫁ではなく花嫁の友人なのです。日本にいるわたしたちにはなじみのない結婚の祝宴の習慣がユダヤにあることが分かります。

 ユダヤの結婚の祝宴、婚宴は二つの祝宴から成り立っていました。まず花婿が花嫁の家に来て、前祝いとでも言うべき祝宴が行われます。そして、その後に続いて、今度は花婿が花嫁を自分の家に連れていき、そこで本格的な祝宴が行われたようです。そして、最初に、花婿がまず花嫁の家に行ったときに、迎えに出る役割を担っていたのがこの10人なのです。

 花嫁を手伝い、助けていく役割を持つ人が、婚宴に招いている友人の若い女性たちの中から選ばれました。それがこの10人のおとめたちです。このおとめたちは、時として町外れにまで出て、花婿を迎えました。時には花婿が遅くなることもありました。当時は花婿の到着が夜中になることもめずらしくはなかったと言われます。その時にはランプに火をともして待つのです。それが彼女たちの役割なのです。

 このたとえ話で最初に花婿は花嫁を迎えにいきます。そこでおとめたちはランタン、ともしびを灯して、花婿を迎え、花嫁が花婿の家に着くまで、その行列のために灯で道を照らしたのです。けれども、花婿の到着が思いがけず遅れてしまいました。それで、おとめたちは皆、眠気がさして、眠りこんでしまいました。

 でも、問題は油断して、体力の限界、身も心も疲れ果て、眠りこんでしまったことにあるのではありません。そのことをイエス様は問題にはされていません。けれども、到着に長い時間がかかることも想定し、十分な油の用意をしていたおとめたちは、ともしびをもう1度整えて花婿を迎えることが出来たのです。しかし、5人のおとめは、その予備の油を準備していませんでした。問題はともしびを灯して高くかかげていくために、そのための油の十分な備えがなかったことにありました。

 この譬え話で、花婿はイエス様を指しています。2000年前に来られたイエス様は、もう一度将来、この世界に来てくださることを約束してくださいました。イエス様の教えとして大事にされてきた教えです。長く信仰を持っている人でさえ、つい、本当だろうか、起こりはしないのではないか、と疑ってしまう教えなのです。そのことは教会の歴史のはじまりから起こってきたことでした。だからこそ、私たちもおりあるごとに聖書から考え、確かめていかなくてはいけないのです。

 もし、イエス様が将来、もう一度来て、イエス様が始めてくださった神さまの救いを、この世界に、私たちに完成して下さらないとしたら、いったいどうなるのでしょうか。そのことを信じなければ、確かに諦めていくものがあります。それは私たちの未来についての希望であり、そしてこの世界の全ての人々の未来についての希望です。

 もし、イエス様が再び来られ、神の国、神さまの愛と正義、平和をこの世界に完成して下さらないとしたら、それはどういうことなのでしょうか。この世界の運命の全ては、人間の手にかかっていることになります。すでにこの世界に働いている悪の力があります。暴力や不正、貪欲、愛、思いやりのなさ。それを克服することは容易なことではありません。そのことはこれまでの世界の歴史が示しています。確かに平和への努力が必要であり、平和への努力が続けられてきています。そこに神さまの働きが起こっています。けれども、もし将来、未来の運命が、私たち人間の手にのみかかっているとするならば、確かなことは、不正、残酷さ、非情さが、この世界を、私たちでさえ支配して終わってしまうのではないかということです。

 けれどもイエス様が再び来られる時、その全ては変わるのです。最終的な決断を下し、最終的な判断を下し、裁かれるのはイエス様です。将来はイエス様のものであり、イエス様の手にあります。だからこそ、希望があるのです。 「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや、死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである」。ヨハネ黙示録の言葉です。この世界を満たしていた苦しみと悲しみ、嘆きは過ぎ去るのです。そして「柔和な人々は幸いである。その人たちは地を受け継ぐ」。神は私たちを見捨てることはありません。そして、このおとめたちは私たちをあらわしていますが、このおとめたちがすでに祝宴に招かれているように、私たちも終わりの時のイエス様の祝宴に招かれているのです。イエス様が再び来て神の国を完成し、愛と平和、正義を満たしてくださいます。そしてこの終わり時の喜びの祝宴に招かれています。将来には神さまが備えて下さっている大きな喜びがあるのです。だから私たちとこの世界の未来には希望があるのです。

 いつイエス様が目に見える仕方で来られるかは分かりません。しかし忘れないでいただきたいことは、この花婿のように、真夜中、最もつらい、最も苦しいと思える時、闇が最も深いと思える時にこそ、イエス様は来て、私たちと共にいて下さっている、ということです。

 先ほど、旧約聖書のホセア書の11章8節を読みました。「ああ、エフライムよ/お前を見捨てることができようか。イスラエルよ/お前を引き渡すことができようか。アドマのようにお前を見捨て/ツェボイムのようにすることができようか。わたしは激しく心を動かされ/憐れみに胸を焼かれる」。私たちを愛して下さっている神は私たちを見捨てることができず、私たちを引き裂くのではなく、ご自分を引き裂き、ご自分を犠牲にして、私たちを赦し、受け入れ、共にいて導いてくださる神なのです。その神の愛をイエス様は示してくださいました。この福音書の終わりで、イエス様は「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と言われました。目に見えないイエス様が私たちを見捨てずにいつも共にいてくださり、この終わりの大きな喜びへと導いてくださいます。

 詩編139編はこの聖書の箇所と一緒に読まれるみ言葉であり、主僕教会でも好きな方の多いみ言葉です。

「1 主よ、あなたはわたしを究め/わたしを知っておられる。2 座るのも立つのも知り/遠くからわたしの計らいを悟っておられる。3 歩くのも伏すのも見分け/わたしの道にことごとく通じておられる。4 わたしの舌がまだひと言も語らぬさきに/主よ、あなたはすべてを知っておられる。5 前からも後ろからもわたしを囲み/御手をわたしの上に置いていてくださる。6 その驚くべき知識はわたしを超え/あまりにも高くて到達できない。

7 どこに行けば/あなたの霊から離れることができよう。どこに逃れれば、御顔を避けることができよう。8 天に登ろうとも、あなたはそこにいまし/陰府に身を横たえようとも/見よ、あなたはそこにいます。9 曙の翼を駆って海のかなたに行き着こうとも 10 あなたはそこにもいまし/御手をもってわたしを導き/右の御手をもってわたしをとらえてくださる。11 わたしは言う。「闇の中でも主はわたしを見ておられる。夜も光がわたしを照らし出す。」12 闇もあなたに比べれば闇とは言えない。夜も昼も共に光を放ち/闇も、光も、変わるところがない。」

 このイエス様を信じ、心に迎えていく時、この後の譬えのように、帰ってくる主人を信じ、希望をもって、与えられた賜物をもって仕えていく。その後の譬えのように、最も小さな者にしてくれたことはわたしにしてくれたことなのだ、というみ言葉に従って、神と人に仕え、油を備え蓄えていくことができます。このイエス様に希望をもって、ともしびを高くかかげ、今度の特別礼拝と音楽コンサートの伝道の時を迎えていきたいと思います。