東京主僕教会の最近一か月の説教など

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2017年11月19日秋の特別礼拝説教

「終わりから今を生きる」ルカ16:1-13、黙示録21:1-4  

 

 最近この日曜日の夜に毎週放映されている、人気小説家の池井戸潤原作の「陸王」というドラマがあります。足袋の製造会社「こはぜや」は、創業から100年の歴史をもつ老舗の会社です。しかし業績が低迷し、経営不振に陥り、社長はこのままでは

  会社が終わってしまうと悩みます。迫ってくる会社の最後を見つめ、自分の人生の終わりも見つめはじめた時、銀行員の一人の提案を真剣に考え始めました。そして老舗の会社がもってきた足袋の製造の技術力を生かし、ランニングシューズの開発という新規の事業を始めることを決断し、開発チームを立ち上げます。次々と起こってくる様々な試練に直面しながら、会社の再生のために奮闘し、前進していくというドラマです。このドラマは特に中高年を対象に高い視聴率を持ち続けているようですが、それは起こっている問題が視聴者の中高年の人々の人生において身近な問題であり、同じようなことが人生にも起こるからではないでしょうか。

 私たちも突然窮地の中に置かれることがあります。追いつめられ逃げ場のない状況に陥る時があります。学校で、仕事場で、日々の生活の中で。家族に何かが起きる。自分が病になる。災害や何かが起きてしまう。様々なことで窮地に立たされます。誰もが死を避けることはできません。そのような時、人は、不思議なことに、このドラマのように、終わりを見つめながら、そこから今どうするかを考えていく考え方、生き方に変わっていきます。そこで思ってもみなかった仕方で道が開かれ、困難を乗り越えて前進していく歩みが始まっていきます。聖書によれば、人生の終わり、最後には希望があるのです。そこから今を考える。それが聖書の人生の見方なのです。

 先ほど読んでいただいたルカによる福音書の「不正な管理人のたとえ」にも、人生の終わりを見つめ始めた時に窮地を乗り越える人の姿がでてきます。財産の管理を任せられていた一人の管理人が主人の財産を無駄遣いしてしまいました。そのことを告げ口されて、主人は彼を呼びつけ、解雇の通知をしたのです。彼は自分がクビになると悟ります。解雇されるのは自業自得と言えるかもしれません。しかし、そこで「管理人は考えた」。「どうしようか」、どう生きようかと考えます。管理人はここで仕事も終わりになるから一休みして、今持っているもので食べたり、飲んだりして楽しもうということもできました。それまでは、今の自分から将来を考えていました。しかし、今、そうではなく、終わりから、終わりに対応して、今をどう生きるのかを考える生き方に変わったのです。

 「自分には土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい」。自分の弱さ、限界を認めつつ、「そうだ、こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれる者たちを作ればいいのだ」と言います。このままでは誰も助けてはくれません。周りの人々、特に主人から借金をしていた人々は、管理人が立場を利用して、自分達に不正なことをして、貧しさの中に放置してきたことを知っています。だからすぐに赦し、家に泊めるとは思えません。そこで、管理人は、主人に借りのある全ての人々を集めて、自分が解雇されることを言わずに、主人の許可なく、その借金の額を減らし、希望を与え、友を作っていくのです。主人をだまして、その財産を勝手に使うことは、今でいえば、私文書偽造、業務上過失、特別背任、詐欺罪などに問われる行為です。とても褒められたものではなく、あってはならないことです。

 けれども、ここには「終わりから今を生きる」大事な生き方があるからこそ、イエス様は、この人の抜け目のないやりかたをほめたのです。今どのように生きるのか。そのことを将来確実に起こってくること、終わりから考えて、託されていた主人の財産を用いて、主人のために、人のために用いていくのです。そこから管理人の人生が切り開かれていくのです。

 ドラマの陸王に出て来るマラソン・ランナーは、初めから百メートル走のような全力のスピードでは走りません。ゴールまでを走り切ることを考えて、今どのように走り、今何をしなければいけないのかを考えます。ドラマのように、のっぴきならぬ故障をしてしまい、これからもその可能性があるのなら、なおさら、どのように走っていくのかが問題になります。そのような意味で、マラソン・ランナーは終わりから考えて走ります。ゴールを考えるからこそ走れるのです。

 そして、聖書によれば、私たちに与えられている終わりには大きな希望があります。聖書では、死を超えて、長期的な視野で考える時に必ず起こってくること、死を超えた終わりの時に起こることが語られています。およそ2000年前に目に見える仕方で来てくださったイエス・キリストが、もう一度この世界に目に見える仕方で来てくださるということです。その時にイエス様によって始められたこの世界と私たちに対する神さまの救いが完成されるということです。

 それが先ほど読みました、ヨハネの黙示録の聖書のみ言葉にでてきます。神さまが私たちに与えて完成してくださる新しい天と新しい地の幻が語られています。3節から5節が有名な言葉です。「玉座から語りかける大きな声を聞いた。『見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら、人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとく拭い取ってくださる。もはや死もなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである』」。教会の葬儀でもよく読まれる言葉で、希望を与えられる言葉です。東日本大震災が起きた後、被災地を見て回ったフィリップ・ヤンシーというキリスト教の世界的に有名な作家は、講演の中で、このみ言葉に示される将来の希望こそ、私たちを本当に生かしていく幻なのだ、と言いました。

 このみ言葉を読む時に現実とは全く違っている夢物語に聞こえるかもしれません。けれども、神さまが、これとは違っている今の現実を、イエス様によってこのように新しく造りかえる歴史を始めてくださっています。この終わりの時に至るまでは、この世界には死という現実があり、悲しみや嘆きや労苦に満ちている現実があります。けれども、この世界と私たちが一体どうなるのか、その運命はイエス様に背負われています。イエス様はこの世界と私たちの全てを背負い、私たちの悲しみや嘆きを引き受けて、死なれ、復活し、新しい世界を始めて下さいました。この復活されたイエス様の命の中に、御手の中に、私たちもこの世界も全てのものの運命があり、イエス様がこの幻を実現し完成してくださいます。私たちの人生の終着点、目的地はここにあるのです。このイエス様を信じることに希望があるのです。終わりの時には大きな神さまの祝福があります。

 私の好きな話ですが、アメリカ北東部のニュー・イングランドの地方に美しい谷があり、きれいな村が幾つもありました。しかし、その谷を横切るダムの建設の話が持ち上がり、その建築が進み、いよいよダムが完成する時が近づいてくると、みるみるうちに美しい谷にあった村は、荒れ果てていきました。その村に住んでいた一人の人はこう答えました。「将来に希望のない所に、今を生きる輝きもない」。この世は永遠ではありません。私たちはこの世では仮住まいです。この仮住まいの世にありつつ、終わりを見据え、終わりから生きる。確かな将来に永遠の住まいに迎え入れられる神の子、光の子として今を生きる。それを知ったなら、この世での生き方が決まってきます。方向をもった人生になります。終わりの時の確かな希望は今を生きる私たちを輝かせていくのです。

 しかし、その時に至るまで、神さまは私たちを放っておかれているということではありません。神さまは今私たちを愛し、共にいて下さいます。イエス様を信じる時、地上にありながら、神と共に生きる永遠の命がすでに与えられて始まっているのです。3節の「神の幕屋が人の間に立って、神が人と共に住み」とありますが、「住む」という言葉は天幕生活をするということです。この言葉は、クリスマスによく読まれるヨハネによる福音書の1章14節にもでてきます。「言葉は肉となってわたしたちの間に宿られた」、この「宿る」という言葉です。神の言葉であるイエス・キリストが来てくださり、今私たちと共に天幕をはって共にいて下さる。「見よ、世の終わりまで、いつもわたしはあなたがたと共にいる」とイエス様は約束されています。十字架で「わたしはあなたとともにいる」と言われたイエス様が、ヨハネの黙示録のその後の言葉にあるように、私たちの「アルファであり、オメガです。最初であり、最後」なのです。

 この世界のはじまりも終わりも、そして、私たちの人生の最初も最後も、このイエス様にしっかりと結ばれています。つり橋の真中に立つと、橋は揺れます。恐くて足はすくんでしまうかもしれません。しかし、どんなに揺れても、両端はしっかりとつなぎとめられているからこそ、安心なのです。そのように、私たちがどんなに揺り動かされ、動揺しても、周囲の光景がどんなに恐く見えても、私たちの人生の両端は、はじめも終わりもイエス様にしっかりと結ばれ、イエス様が共にいて支えてくださっています。どんな現実も最後ではありません。力つき弱り果て、倒れ果てた私たちが最後ではないのです。このイエス様が共にいてくださり、終わりの時の幻を実現するまで私たちを導いてくださるからこそ、困難の中にあっても絶望せず、終わりの時の希望を持って歩むことができるのです。

 先ほどの管理人の譬え、聖書によれば、神さまによって命を与えられ、生かされている私たちがもっているものは全て本来神さまのものです。自分のためだけではなく、神さまと人のために用いていくように貸し与えられています。確かな将来、神に迎え入れられ、永遠の住まいに生きていく神の子として、今、与えられている賜物を自分のためだけではなく、神と人のために用いていく。神さまから与えられている愛と平和の現れる器として生きる。そこに終わりを見据えた、豊かな人生の方向性があるのです。

 陸王のドラマのホームページのトップには「自分を変える覚悟があるか」という言葉があります。それは様々な窮地のなかで何らかの「終わり」を意識する時、誰もが考えて決断せざるをえないことに違いありません。子供は、親からただ勉強しなさいと言われるだけでは反発します。しかし、目標、ゴールを示されれば、そのためにどうしたらよいのかと考え、困難があっても自分なりに取り組みを始めるのです。終わりから、ゴールから、今を生きる。それはイエス様が私たちに与えてくださった人生をよく生きるため、よく生き抜くための知恵であり、励ましです。聖書によれば、私たちの人生の終わりには確かな希望があります。どうか、皆さんが、聖書で神さまが示してくださっている終わりに希望をもって、この神を信じ、この終わりから今を生きる、永遠の住まいに生きる神の子として、今を生き始め、豊かな人生を歩んでいかれるようにお祈りをいたします。

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