東京主僕教会の最近一か月の説教など

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2017年11月26日主日礼拝説教

「愛に生きる」マタイ25・31-46                        

 

 この聖書のみ言葉から生まれた話に、ロシアの文豪トルストイが記した「民話集」の短編小説の中にある「靴屋のマルチン」と呼ばれる話があります。、一人の靴屋の老人が主人公です。

  マルチンは最愛の妻も息子にも先立たれ一人ぼっちとなってしまいました。この世になんの未練もない、死ぬことだけが望みだと考えるマルチンに、ある人が新約聖書をプレゼントします。毎日仕事が終わるとこの新約聖書を手にとって熱心に読み始め、やがて、この本の主人公のイエス・キリストの魅力と捕らえられていきます。そんなとき彼はどこからともなく「明日、あなたのところに行きます」と言うイエスの声を聞くのです。その次の日、彼は小さな部屋を掃除し、お茶を沸かし、料理を作り、主イエスの訪問を待ち続けます。「イエス様はいつ来られるのだろう」と言う思いが、彼の関心を小さな窓の外へと向けさせます。そこで目撃するのは寒さの中で道路を掃除する男であったり,リンゴ売りの老婆とそのリンゴを盗む少年であったり、そしてお金も食べるものもなく困り果る乳飲み子を抱える貧しい母親であったりするのです。マルチンはそのすべての人を自分の家に招き入れ、自分がイエス様のために準備した、お茶や料理をごちそうします。やがて夕暮れになって、マルチンはまた一人で新約聖書を開きます。そのとき、彼が読んだ箇所が「これらの最も小さな者にしたことはわたしにしたことです」と言うところだったのです。マルチンはこの聖書の箇所を読みながら「確かに今日イエス様は自分のところに来てくださったのだ」と言う喜びに満たされて小説は結ばれます。自分のことだけを考え、絶望に閉ざされるマルチンの関心を目の前の隣人に向けさせたのは何か、それは「明日、あなたのところに行きますよ」と言われたイエス様の言葉でした。

 今日のみ言葉にあるたとえ話は恐ろしく聞こえるかもしれません。けれども、この恐ろしい話を読んで、最後の審判において山羊の側にならないために、地獄の火を逃れて神の国に入るために、あたかも保険をかけるかのように、善行や隣人愛の行為を一生懸命に積み立てるとするならば、それは何かおかしいように思えます。確かに、悪いことをするよりは、善いことをする方がよいのですが、その動機と目的がただ「山羊の側にならないため」ということであるならば、何かがおかしいのです。それでは自分が救われるために他の人を踏み台にして犠牲にすることであり、愛の名を借りた究極のエゴイズムになるのです。それはまた信仰義認ではなく、行為義認ともいえるのではないでしょうか。それではどのように読んだらよいのでしょうか。

 この聖書の御言葉がこの待降節の直前に読まれるのは意味があります。イエス様こそが最も小さい者であり、最も小さい者・飼い葉おけに寝かされている無力な幼子として私たちのもとに来て下さいました。イエス様は最も小さな者、最も弱い者、最も卑しい者として来て下さいました。私たちの小ささ、弱さ、無力さ、惨めさ、罪深さをご自分に引き受けて、ご自分のものとして、生涯を歩まれました。このイエス・キリストに背負われている私たちも、最も小さな者の一人です。そのことは、高慢になった弟子達に、あなたがたこそ、これらの最も小さな者の一人なのだ、と繰り返し言われた言葉から明らかです。イエス・キリストが最も小さな者である私たち一人一人を訪ね、食べ物を与え、飲ませ、着る物を与え、宿を与えて下さっています。このたとえ話をしておられるイエス様が望んでおられることは、ここから始まっていくのです。地獄の火を免れるための保険でもない、神の国に入るために一生懸命に貯えたポイントでもない、いかなる形においても自分自身に栄光を帰さない、自分の記憶にさえも残らない愛の行いはここから始まるのです。

 考えてみると、ここには大きなイエス様の恵みがあります。どんなに小さな者であっても、無力な者であっても、イエス様は「これはわたしの兄弟だ」と言ってくださり、私たちの傍らに立ってくださいます。私たちが助けを受けるならば、イエス様御自身が受けたかのように感じてくださいます。また、不当な扱いを受けるなら、蔑ろにされたり、軽んじられたりするのなら、イエス様御自身が蔑ろにされたり軽んじられたりしたかのように怒ってくださいます。それほどにイエス様は私たちのことを思ってくださり、私たちをイエス様の兄弟として、私たちと御自分とを同一視してくださるのです。

 私たち自身の傍らに立って、「これはわたしの兄弟だ。わたしの兄弟であるこの最も小さな者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」と言ってくださり、私たちを大切に思っていてくださるイエス様を知ることができます。そのように私たちの傍らに立ってくださるイエス様が見えてくるとき、他の人の傍らに立っているイエス様が見えてきます。イエス様が私たちを大切に思ってくださったように、主は他の人たち、私たちの周りの人たち、特に助けを必要としていたり、愛されることを必要としている人たちについてもこう言われるのです。「これはわたしの兄弟なのだ。わたしの兄弟であるこの最も小さな者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのだ」と。

 ところで、冒頭の靴屋のマルチンは、イエスの言葉を聞いて恐れたり、「これはたいへんだ」と慌てたのではありません。彼は喜んだのです。「一人ぼっちの自分のところにイエス様が来てくださる」と言う期待に胸ふくらませたのです。そしてその期待が、普段は無視してしまうかもしれない外の人々との出会いを生んだのです。同じように、終末の出来事は、私達を恐怖に陥れるものではありません。「イエス・キリストが私のところに来てくださる」のです。イエスの救いにあずかる私達にとってその日は期待に胸ふくらませるときだと言えるのです。そしてその期待が、いままで自分の内側にしか向けられていなかった私達の心の目を「最も小さな者」に向けさせるのです。そして、それはたとえ小さなことであっても、決して主の目に軽んじられることはないのです。

 この御言葉に影響を受け、人生を変えられた人物の一人に、貧しい人々に仕えていったマザーテレサがいます。毎朝、ミサにでてから一日の奉仕を始めていったのは、このイエス様を信じ、イエス様から与えられている愛を受け取って、出て行ったことを示しています。「私は朝早く礼拝を捧げることを通してイエス様と出会い、道端で死んでいく人に一口のスープを飲ませ、死に行く人を一人の人間として死の看取りをする、その人を通して先にその人々の所に行っておられるイエス様と出会っているのです」。

 私たちのこの世界には様々なことが起こります。けれども、その私たちを支えていくのは、この私たちをイエス様が訪れ、共にいて下さっている、ということです。全てを背負い、ご自分に与えられている全てのもの、永遠の命を私たちに与えて下さっているということです。「わたしは世の終わりまで、あなたがたと共にいる」。どんな時もイエス様が私たちを愛し、共にいて下さいます。このイエス様から与えられている愛をもって仕えるように招かれています。

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