東京主僕教会の最近一か月の説教など

礼拝に来ることができなかった方、教会に関心のある方のために牧師が作成しています。どうぞ、礼拝にも来てみてください。

2017年12月3日礼拝説教

「キリストを待ち望む」コリント一1・4-9 2017.12.3

 本日から待降節が始まりました。待降節は12月24日のクリスマス・イブの日まで続きますが、待降節は英語ではアドベントラテン語の「到来」を意味する「アドベンツウス」という言葉に由来しています。

 

 救い主イエス・キリストが、かつて到来して来て下さったことを思い巡らしながら、再び終わりの時に到来して来て下さることを待ち望んでいく、その歩み、生き方を整えていく時です。このアドベントには、クリスマス・リース、アドベント・クランツにろうそくを立て、火を日曜日ごとに一本ずつともしていく教会もあります。闇と言える現実がある。しかし、その闇と言える現実の中に光がさしていることを確認していく時、それがアドベントなのです。


 先ほどイザヤ書の聖書のみ言葉を読みました。旧約聖書の中で最大の悲劇であるバビロン捕囚から解放され、エルサレムに無事に帰還した人々は、希望に満ちて町を再建しようとしたのですが、思うにならない現実に直面します。彼らを待ち受けていたのは、エルサレムの町の荒廃であり、周辺の民の迫害、日照りなど、次々と大変な出来事に直面しました。神の怒りにあっているとしか思えない現実、まさに闇の中にいるように感じていたのです。イザヤ書64章はイザヤ書の哀歌と呼ばれたりしますが、その1節のはじまりは口語訳聖書では「どうかあなたが天を裂いて下り」という大変な祈りの言葉になっています。深い暗闇の中で天が裂かれるとは思えない、苦しい状況がこのまま続くとしか思えない悲惨さのどん底から神に嘆き、神が来られることを祈り求めているのがイザヤ書の64章です。この世界にも私たちにも、「どうかあなたが天を裂いてくだってください」、そのように叫ばざるを得ない闇と言える現実があります。けれども、このアドベント待降節は、今、闇の中で、この祈りに答えて、天を裂いて低きに降って来られたキリストを見つめていく時です。ろうそくの火をともし見つめていくように、自らを投げ捨てて、天を裂いて、低きに下って来てくださったイエス・キリストの命の光があり、この光の中に私たちが包まれていることを見つけ出していく時です。それが待降節の歩みなのです。この命の光をコリントの信徒のみ言葉から見つけていきたいと思います。


 このコリントの教会は、パウロが第二伝道旅行の際に、一年半ほど滞在し、伝道して生まれた教会でした。しかし、この教会からパウロが去り、次の伝道者のアポロも去ってしばらくすると、パウロが予想していなかった争い、倫理的な問題や罪から起こる様々な問題が起こり、教会は混乱に陥っていきました。そのことで遠くにいるパウロに質問状が寄せられて、パウロがこの手紙を書いたのです。しかし、パウロが書き始めるにあたって、書いたことは神さまへの感謝の言葉でした。混乱の中に陥ったコリントの教会の人々を嘆いたり、叱ったり、注意するのではなく、まず感謝の言葉を語るのです。「わたしはあなたがたがキリスト・イエスによって、神の恵みを受けたことについて、いつもわたしの神に感謝しています」。「キリスト・イエスによって」、この「よって」は、ギリシャ語の原文では、英語ではインという言葉にあたります。キリスト・イエスの中にある者とされた、そのこと自体、神さまの恵みによって起こっている大変な出来事なのです。この後の5節の「キリストに結ばれて」という言葉も「キリストの中にあって」という言葉です。パウロはこの「キリストの中にあって」という言葉をいろいろな箇所で多く使っています。

 

 パウロがいろんな問題を考えるにあたって出発点にしていくこと、それが「キリストの中にある」、「キリストに結ばれている」ということです。ここでも、コリントの教会の人々のことを、どんな問題を抱えていても、1章2節では「キリスト・イエスによって召されて」、キリストに召し出された人々であり、そしてこの4節、5節で、そのキリストの中にある者、キリストに結ばれている者として見つめているのです。そのことはどんな現実に包まれていても、何があっても変わることはありません。キリストによって召し出され、キリストの中にある。その事実は変わることはないのです。キリスト・イエスの中にある者。それは一体どういうことなのか。一匹のいなくなった羊の譬えでいうならば、羊が羊飼いに背負われている姿と重なります。キリストに探し出され、招かれ、手をとられ、キリストに背負われて、キリストの命に包まれて導かれている。そこに今朝、私たちに起こっている神の御業があるのです。命の光の中に包まれているのです。


 『レ・ミゼラブル』(悲惨な人々)という映画があります。主役のジャン・バルジャンは娘がフランス革命フランス軍に抵抗する革命軍の一人である若者に恋をし、はじめは反対していました。しかしある夜、フランス軍と革命軍が衝突し、その若者は瀕死の重傷を負いました。すると、ジャン・バルジャンは若者を探し回り、発見し、意識のない彼を背中に担ぎ、パリの悪臭の放つ下水道を逃げ回り、ようやく病院に辿り着くと、彼を治療させ、赦して、娘のもとに送りだすのです。この世はレ・ミゼラブル・悲惨な人々の世界です。けれども、この悲惨な世界、飼い葉おけで生まれ、十字架で死なれ、私たちの悲惨をご自分のものとしてくださったキリストが、私たちを背負い、神の愛に包みこみ、ご自分の復活の命の中においてくださっています。どんなに深い闇が覆っているように思えても、私たちは今朝、キリストの愛、命の光の中に包まれています。


 パウロは、コリントの教会の人々を、キリストに召し出され、キリストの中にある者、キリストに結ばれた者と言った後、そうして与えられている恵みを語っていきます。それが「あらゆる言葉、あらゆる知識において、全ての点で豊かにされています」。コリントの教会は、言葉と知識において、大変豊かな恵みを与えられていました。その言葉とは、単なる弁舌のことではなくて、神様の恵みを語る言葉、キリストの福音を宣べ伝える言葉です。知識も、一般的な教養ではなくて、信仰における知識、神様のみ言葉である聖書に関する知識です。そういう信仰的な言葉と知識において、豊かな恵みを神様から与えられていました。7節「あなたがたは賜物に何一つ欠けるところがなく」とあるように、この教会には優れた賜物を持った人がたくさんいたのです。ところが、その賜物を、自分を誇り、自分がどんなに素晴らしいことを行っているかを人に誇るために用いたところに問題が起きたのです。それはどこまでもキリストの現れを待ち望む歩みのために用いること。それがパウロの願いなのです。キリストに招かれ、キリストに背負われている私たちも、一人一人神さまから様々な賜物を与えられています。キリストを証ししていくための一人一人違った様々な豊かな賜物を与えられています。待降節は、その賜物を人に誇り、満足するのではなく、その賜物を神さまに感謝して、キリストの現れを待ち望んでいく歩みのため、主の栄光のために、主の愛が表れていくために用いていくこと。それがパウロの願いであり、私たちの待降節の課題なのです。


 8節の言葉は暗唱聖句にもなる有名な言葉で慰め深い言葉です。この言葉は、「あなたがたは主を待ち望む者となっている」と言った後、「それでは、主が来られる時、本当に自分は救われるのか」という疑問に答えて、念を押して語っています。「主も最後まであなたがたをしっかりと支えて、私たちの主イエス・キリストの日に、非のうちどころのない者としてくださいます」。神さまは確かに私たちを最後まで支え救いにあずからせて下さるという恵みを与えて下さっています。これほど心強いことはありません。


 「あなたがたが私を選んだのではない。私があなたがたを選んだ」。私たちを愛し、選び、招いてくださった主は、私たちを最後まで背負い、支え、救いの完成に与らせてくださいます。そのために導いてくださいます。これが神の真実であり、最後にパウロが希望として私たちに差し出していることです。私たちを招いてくださった主は私たちを背負い、支え、救いを完成してくださいます。この神の真実を私たち一人一人が与えられているのです。この朝、この神の真実をぜひ信じていただきたいのです。待降節、私たちを包み、導く命の光、神の真実の光があります。共に、この神の真実に答え、神様を信じ、感謝しつつ、主イエス・キリストの現れを待ち望んでいくことができるように祈りたいと思います。