東京主僕教会の最近一か月の説教など

礼拝に来ることができなかった方、教会に関心のある方のために牧師が作成しています。どうぞ、礼拝にも来てみてください。

2017年12月3日礼拝説教要約

「キリストを待ち望む」コリント一1・4-9

 

 待降節が始まりました。救い主イエス・キリストがかつて到来して来て下さったことを思い巡らしながら、再び終わりの時に到来して来て下さることを待ち望んでいく生き方を整えていく時です。この世界にも私たちにも「どうかあなたが天を裂いてくだって

 ください」と叫ばざるを得ない闇と言える現実があります。けれども、待降節は、その闇の中で、この祈りに答えて、天を裂いて低きに降って来られたキリストを見つめていく時であり、この命の光の中に私たちが包まれていることを見つけ出していく時です。

 様々な争いが起きていたコリントの教会の人々に対して、パウロが書き始めた言葉は、批判や怒り、非難ではなく、神さまへの感謝の言葉でした。「わたしはあなたがたがキリスト・イエスによって、神の恵みを受けたことについて、いつもわたしの神に感謝しています」。「キリスト・イエスによって」とは「キリスト・イエスの中にある者」という言葉です。この後の5節の「キリストに結ばれて」という言葉も「キリストの中にあって」という言葉です。パウロが様々な問題を考えていく時の出発点は「キリストの中にある」ということです。

 キリストに召し出され、キリストの中にあり、キリストに結ばれている。それは一体どういうことでしょうか。一匹のいなくなった羊の譬えでいうならば、羊が羊飼いに背負われている姿と重なります。キリストに探し出され、招かれ、手をとられ、キリストに背負われて、キリストの命に包まれて導かれている。そこに今朝、私たちに起こっている神の御業があるのです。命の光の中に包まれているのです。

 『レ・ミゼラブル』(悲惨な人々)という映画があります。主役のジャン・バルジャンは娘がフランス革命フランス軍に抵抗する革命軍の一人である若者に恋をし、はじめは反対していました。しかしある夜、フランス軍と革命軍が衝突し、その若者は瀕死の重傷を負いました。すると、ジャン・バルジャンは若者を探し回り、発見し、意識のない彼を背中に担ぎ、パリの悪臭の放つ下水道を逃げ回り、ようやく病院に辿り着くと、彼を治療させ、赦して、娘のもとに送りだすのです。このジャン・バルジャンのように、キリストが私たちを背負い、神の愛に包みこみ、ご自分の復活の命の中においてくださっています。どんなに深い闇が覆っているように思えても、私たちは今朝、キリストの愛、命の光の中に包まれています。

 キリストに召し出され、キリストの中にあり、キリストに結ばれて、私たちはキリストを証しするための一人一人違った賜物を豊かに与えられています。それは自分を誇るためではなく、キリストの現れを待ち望む歩みのために、神の栄光のために用いるように召されています。

 私たちを愛し、選び、招いてくださった主は、私たちを最後まで背負い、支え、救いの完成に与らせてくださいます。この神の真実を一人一人が与えられているのです。待降節、私たちを包み、導く命の光、神の真実の光があります。この神の真実に答え、神様を信じ、感謝しつつ、主イエス・キリストの現れを待ち望んでいきたいと思います。