東京主僕教会の最近一か月の説教など

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2017年12月10日礼拝説教

「私たちを慰めてくださる神」イザヤ40・1-11 

 

  年末になると、日本ではベートーヴェンの第九がよく演奏され、コンサートが行われますが、この時期、世界では特に、ヘンデルメサイアがよく演奏されるようです。メサイアはクリスマスにふさわしいといわれていますが、

  それは、その歌詞がメシア・救い主であるイエス・キリストの誕生から生涯、受難、十字架の死、復活を力強く歌っているからです。メサイアの歌詞はそのイエス・キリストを預言する旧約聖書の言葉が多く引用されています。その歌詞は今日のイザヤ書40章の言葉からはじまります。作曲者のヘンデルは1741年、オペラの失敗による経済的破綻とオラトリオの不成功によって、失意のどん底にありましたが、友人のチャールズ・ジェネンズから送られた歌詞のテキスト「メサイア」に感激し、霊感を受けたように、3週間で一気に作曲したと伝えられています。ヘンデルはクリスチャンではなかったようですが、しかし、失意の中で、この歌詞、イザヤ書の聖書の言葉から慰めを与えられ、力を与えられて立ち上がっていったといえるのです。今日のイザヤ書のみ言葉は失意の中にある人々を慰め、力を与え、立ち上がらせることのできるみ言葉なのです。

 「慰めよ」と始まるイザヤ書40章から55章は、「慰めの書」と呼ばれています。旧約聖書の歴史の中で、ユダの国がバビロニア帝国に侵略され、エルサレムが破壊され、バビロニアの首都バビロンに多くの人々が連行され、旧約聖書の歴史の中で最大の悲劇といわれるバビロン捕囚を経験し、40年以上の長い年月が経過したときに語られた言葉です。エルサレムの神殿が破壊し、国は滅び、連れていかれたバビロンの町で、イスラエルの人々はベルやネボといった偶像の神々を見せつけられ、あなたの神はどうなったのかと馬鹿にされ、神は無力な神なのかと絶望感に打ちひしがれ、よりどころを失っていました。本当に安心できる家もなく、疲れ果て、生きる意味も進むべき方向も全く見いだせず、孤独と虚しさをかかえていたのです。この捕囚の時代の人々を示す大きな特徴の一つは「ホームレス」、家がないということです。家がない、ホームレス。家がないことほど悲しいことはありません。家を失い、家族を失い、ルーツを失い、自分を見失い、群れから迷い出た子羊のようにさまよっていたのです。

 この時、この民の一人として生きていたイザヤに神さまは呼びかけられました。「「慰めよ、わたしの民を慰めよ」とあなたたちの神は言われる」。イザヤ書によれば、イスラエルの人々のこの状況は、不信仰の罪によって始まりました。すべての悲劇、災害、惨劇が人間の罪から起こっているとは言えません。けれども、旧約聖書は、イザヤ書1章から39章は、この捕囚の悲劇については神への不従順から起きたのだと指摘しているのです。神よりも人の力を頼り、北の大国バビロニア帝国の抑圧に対して、南の大国エジプトの力を借りて対抗しようとしたのです。その結果がバビロニアによる徹底的な破壊でした。神に背き、神から見捨てられ、神は遠く離れてしまったと思って、神を見いだせず過ごしていたのです。

 しかし、その「苦役」、戦いの日々が終わり、その咎、罪は完全に償われ、もう充分に「罪のすべてに倍する報いを/主の御手から受けた」と言うのです。罪が贖われ、赦されて、解放される。神さまは決して見捨てていない。神さまは人々を愛し、受け入れ、赦し、共にいて救いへと導いてくださる。このイザヤ書の40章から55章には慰めの言葉が多く語られています。イザヤは手を変え、品を変え、捕囚の中で苦しむ人々に神さまの慰めの言葉を語っています。43章4節「わたしの目にあなたは価高く貴い、わたしはあなたを愛し、あなたの身代わりとして人を与える」。46章3、4節「あなたたちは生まれた時から負われ、胎にいる時から担われてきた。同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで白髪になるまで背負っていこう。わたしが担い、背負い、救い出す」。49章15、16節「たとえ、母親が忘れようとも、わたしがあなたを忘れることは決してない。見よ、わたしはあなたをわたしの手のひらに刻み付ける」。どれも暗唱聖句としてあげられる有名ない聖句であり、このイザヤ書のみ言葉によって励ましを与えられてきた方もいるのではないでしょうか。神さまは私たちを見捨てずに愛し、赦し、共にいて導いてくださる神であることを繰り返し告げているのです。

 このように、神さまが私たちを見捨てずに愛し、赦して、導いてくださること、その根拠が神の言葉です。6節で「呼びかけよ」と神さまに言われたイザヤは「それでは、なんと呼びかけたらよいのでしょうか」と問います。すると、神さまはイスラエルの人々の現実をとらえながら答えられました。「肉なる者は皆、草に等しい。永らえても、すべては野の花のようなもの。草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ。この民は草に等しい」。聖書のイスラエルの民は、確かに野の花のようなものです。一時期はさかんに咲いていても、やがてそれはしぼんでしまう。それはまた一人の人間としても共通に言えることです。輝きと美しさ、力強さとすばらしさをもっている。けれども、衰えと弱さがあり、はかなさとむなしさを抱え、あわせ持っている。しかし、このみ言葉は、この世は栄枯盛衰、諸行無常、だからせめて生きている間は美しい草花のようであれ、美しく生きなさい、と言って終わるのではありません。それは死と滅びを前提にした生き方です。聖書は「結局人間は滅びるのだから美しく生きよう」という滅びの美学を語るのではないのです。

 「草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」。神の言葉、神の愛の御心は、すべてが枯れ果ててしまったかのように見える現実の中で、なお固くとこしえに立っている。有限であり、弱く、はかない私たちをとらえ包みこみ、関わってくる永遠の神の言葉があるのです。イザヤはこの神の言葉を見つめ、神の言葉に聞くように訴えるのです。この永遠の言葉にとらえられるところに滅びではなく、あきらめでもなく、永遠の命があり、救いがあり、希望があるのです。この世界は滅びで終わる世界ではなく神さまの永遠に至る希望があるのです。それがどんな人にとってもすばらしいことであるがゆえに、9節でイザヤは確信して良い知らせを伝えざるを得ないのです。

 この神の言葉を聞いていく時に、神の言葉によって示され、与えられていく神の救い。それが一体何かが10節から11節に示されています。神が天からくだり、傍らに来てくださる。特に11節の言葉は有名です。その神が羊飼いとして、子羊である私たちを養い、御腕をもって養い、私たちをふところに抱き、私たちを導いてくださる。今日配布されている「こひつじかい」の通信で羊のことが触れられていますが、人々が羊を本当に喜んで飼って養っていく姿があります。だとするなら、神さまはどんなにか、それ以上に、私たち一人ひとりを愛する羊として、喜んで集め、養い、ふところに抱き、導いてくださっていることなのか、とも思わせられました。これこそ、バビロンの地で、家なき者として、孤独と虚しさを抱えた人々を慰めたことだったのではないかと思うのです。神が喜んで、天からくだり、共にいてくださること。ふところに抱いて、支え、導いてくださっているということ。どのような人であれ、誰もが本当の家があり、この神こそ本当の住みか、家であり、その神の永遠の御腕に支えられていること。このことが捕囚の地にいた人々に慰めと希望を与えたのです。

 神さまはイエス・キリストにおいて、天よりくだり、私たちの所に来て下さいました。そして、私たちと共にいてくださり、私たちをふところに抱き、支えてくださっています。父なる神の住まい、家へと私たちを導き、終わりの時の神の御国の完成へと導いてくださいます。その時に至るまで、共にいてくださるキリストご自身が、わたしたちの住まいとなり、わたしたちを支える永遠の御腕となって導いてくださっています。冬になると、樹木は葉を落としていきます。人生も死に至って落ちるようなものかもしれません。けれどもたとえ枯れ果てても、たとえ落ちても、なお私たちをいだき、支え、導いていく神の御腕があり、神の言葉という永遠の支えがあるのです。キリストが私たちの支えとなって共にいてくださいます。どんなものもキリストによる神の愛から私たちを引き離すことはできません。これほど確かな支えはないことを覚えていただきたいのです。

 マルコによる福音書イザヤ書を言い換えています。「主の道を整えて、その道筋をまっすぐにせよ」(マルコ1)。道をまっすぐにすると解釈しています。しかし、本来バビロンからエルサレムまで道を作ろうとするならば、地図をみると迂回した道を作らざるを得ず、真っすぐな道を作ることは不可能です。しかし、それが可能なのは、神が道なき場所に道を作り、キリストが私たちの先頭にたって、その道を導いてくださるからです。そのために今キリストが私たちをふところにいだき、命の道へと連れ出してくださっています。待降節の歩みを迎え、神さまに心を向けて、心を整えていく時を与えられています。この時、この神の言葉、キリストを信じ、この神の言葉、キリストを確かな支えとしていきたいと思います。そして、神に備えられた命の道を歩み、私たちも人々に対する慰めの器とされることを祈りながら、クリスマスに、キリストを心に迎えていきたいと思います。