東京主僕教会の最近一か月の説教など

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2017年12月17日礼拝説教

「マリアの賛歌」  ルカ1・46-56 

 

  クリスマスの時期になると「アヴェ・マリア」という題名のついた曲をよく耳にするのではないでしょうか。調べるとグノーやシューベルトといった人々が作曲したものだけでなく、この名のついた歌もたくさんでてきます。

  「アヴェ・マリア」という言葉はルカ福音書1章28節の「おめでとう、恵まれた方」と始まる天使の挨拶の言葉に由来しています。その祈りの歌詞の内容はマリアをたたえ、マリアに祈るものです。

 カトリック教会ではマリアを聖母、キリストの母として、神と人との間にある仲介者のような存在として位置付けるので、天使的な存在、神のように崇拝し、祈り、歌われることがあります。けれどもプロテスタント教会では、マリアは弱さを抱え、欠けがあり、罪びとである人間にすぎません。マリアを賛美し祈ることはありません。でも興味深いことに、宗教改革マルティン・ルター、そしてツヴィングリといった人でさえアヴェ・マリアの祈りを祈りました。それはこのマリアに与えられた天使の挨拶を、同じように弱い小さなものに過ぎない自分への祝福の挨拶として受け止めたからです。

 今日の箇所には、このマリアが感謝して歌った賛歌が記されています。ルカによる福音書のクリスマスに向かう1章、そしてクリスマスの2章を読んでいくと4つの有名な賛歌がでてきます。「マリアの賛歌」、「ザカリアの賛歌」、「天使たちの賛歌」、「シメオンの賛歌」。教会の歴史のなかで、これらの賛歌は大事な歌として礼拝で読まれ、祈られ、歌われてきました。これらの賛歌も、キリストの誕生によって私たちに与えられている神さまの恵みを覚えて神さまを賛美する歌として大事にされてきたからです。

 今日の47節から55節のマリアの賛歌は「マグニフィカート」と呼ばれます。「私の魂は主をあがめ」、この「あがめる」という言葉がラテン語訳の聖書では最初にあって、その言葉が「マグニフィカート」という言葉で、この賛歌が覚えられてきたからです。この賛歌も昔から多くの曲を生み出してきました。グレゴリオ聖歌、そしてJ・S・バッハを初め、いろんな作曲家がこのマリアの賛歌(マニフィカート)に曲をつけています。そして多くの賛美歌も作られてきました。今日の「わが心は、あまつ神を尊み」という賛美歌もこの聖句に基づいています。

 このマグニフィカートという言葉は本来「大きくする」という意味があります。地震の大きさを表すマグニチュードの語源となった言葉です。マリアは心の中で神に焦点をあて、神をクローズ・アップして大きく見つめていくのです。なぜ、このように神を大きく見つめていくのでしょうか。それは、今まで気づかなかったこと、見えてなかったことに気付いたからです。

 「身分の低い、この主のはしためにも、目を留めてくださったからです」。マリアはローマ帝国支配下にあったパレスチナの片隅にあるナザレの村の出身の普通の村人、貧しい女性であり、この時20歳になっていない、おそらく10代前半だったともいわれています。しかも大工であったヨセフと婚約中でした。しかし、そのマリアに「おめでとう」と天使が現れ、受胎告知と呼ばれる出来事が起こったのです。

 結婚して一緒になっていないのにマリアから救い主が生まれると告げられたのです。マリアは、この天使の言葉に驚き、戸惑い、疑って、考え込み、「そんなことはあり得ない」と言って苦しみます。科学的にもありえない。そしてヨセフと婚約をしたばかりで、夫婦の関係にもなっていないのに、身ごもったら、まわりの人々がなんというか、後ろ指を指され、陰口をたたかれ、訴えられれば石打ちの刑になります。普通なら錯乱状態、気も狂わんばかりの状態です。これはマリアの生涯にとって思わぬ大事件でした。けれども、マリアは、この直前を見ると、後の洗礼者ヨハネを宿した高齢のエリサベトに出会い、エリサベトから祝福を受けた時、この天使の言葉を信じて喜んだのです。そして生まれたのがこのマリアの賛歌でした。

 マリアがなぜ喜んだのか、その理由が48節の言葉です。神は「身分の低い、この主のはしためにも、目を留めてくださったからです」。身分の低い、社会的に貧しい、取るに足らないこの私に、神は目をとめて、心にかけてくださった、と喜んでいます。自分自身を見る時に、他の人々に対して誇ることのできるものは何一つない。この世界の基準からみれば、人の目から見れば身分が低くみじめな自分、卑しい者としか思えない。何も期待されていないし誰からも注目されませんでした。

 マリアの生きた時代は、このマリアの賛歌にみられるように権力ある者が傲慢に支配し、豊かな者が全てを独占していく時代でした。人が権力や財産、何か誇れるような強い力、能力や健康、業績、人がうらやむような何かを持つことが幸せであり、それを持つことを追求し、それがなければ、人間は価値がない、意味がない、どうでもよい存在だとみなされた時代だったのです。それは私たちの生きているこの時代にも起こっていることであり、私たちもいつのまにかその見方に巻き込まれてしまうのです。

 しかし、神さまは身分でもない、性別でもなく、この貧しいものに目をとめてくださいました。今まで偉大な神は偉大な人々にしか、権力ある者や富める者にしか、目をお留めにならないと思っていたのに、そうではなかった。この貧しい私に目を留めてくださった。そして偉大なことをしてくださった。そのようにして神さまはこの私を愛してくださった。マリアはそのことを実感したのです。そのことが驚きであり大きな喜びとなったのです。

 私たちも一人一人神さまに愛されています。ヨハネによる福音書3:16「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。この「世」とはこの世界であり、そして私たち一人ひとりです。自分の名前に置き換えてみると、自分に対する神の愛が迫ってきます。自分自身をどんなに価値のない自分、劣等感や虚しさを抱えどうでもよい存在に思えたとしても、神さまは愛し、受け入れてくださっています。だから、私たちに大事なイエス・キリストを遣わし、キリストを与えて、神さまに愛されていることを教えてくださいました。神さまに愛されている神の子として、神さまと共に生きる新しい命を与えてくださいました。

 日々の現実には単純に喜ぶことのできないこともあるかもしれません。見通しのつかない厳しい現実、悲しい出来事に囲まれることもあります。けれども、その中で私たちを支え、生かし、力を与えていくのは、神さまに目をとめていただいている存在であり、心にかけられている存在であり、神さまに愛されて必要とされて用いられる大切な存在であるということです。

 この神さまの視点をもって自分を見つめていく時に、この世界に起こっていく神さまの働きがどのようなものなのかが見えてきます。マリアは、貧しいこの自分が高くあげられている、飢えた自分に良いもの、神の恵みが与えられている、しかし今度は、反対に権力ある者や富める者が必ず低められ、打ち砕かれること、そして神さまの恵みを知らされていく救いの物語が始まったことを知ったのです。クリスマス、私たちのために来てくださったイエス・キリストがこの救いの物語を始められました。貧しい者の神、困難の中にある者の神、苦しみの底に沈んでいる者、そういう低いところに降られ、苦しまれ、死なれ、復活されたのです。マリアはアブラハム以来、約束されてきた神さまの憐れみ、神の大きな救いの物語に招かれて生きる自分であることを知らされたのです。私たちの人生には意味があるのです。

 私たちもこの朝、神さまに招かれ、救いの物語に連なっています。神さまは私たちを愛し、目をとめて、心にかけてくださっています。そして、私たちも神さまの愛を表して伝えていく神さまの働く器とされています。この朝、自分を小さく低くして、この神さまの愛を見つめ、神さまの愛を分かち合い、伝えていくものとなることを祈り、クリスマスにキリストを心にお迎えし、神さまを賛美していく準備をしていきたいと思います。