東京主僕教会の最近一か月の説教など

礼拝に来ることができなかった方、教会に関心のある方のために牧師が作成しています。どうぞ、礼拝にも来てみてください。

2017年12月17日礼拝説教要約

「マリアの賛歌」ルカ1・46-56

 ルカによる福音書1章47節から55節のマリアの賛歌は「マグニフィカート」と呼ばれます。「私の魂は主をあがめ」、この「あがめる」という言葉がラテン語訳の聖書では「マグニフィカート」という言葉なのです。

  この賛歌が自分に与えられた神さまの恵みに対する感謝と賛美の歌として覚えられ、昔から多くの曲を生み出してきました。
 このマグニフィカートという言葉は「大きくする」という意味があります。地震の大きさを表すマグニチュードの語源となった言葉です。マリアは心の中で神に焦点をあて、神をクローズ・アップして大きく見つめていくのです。
 マリアがなぜ喜んだのか、その大きな理由が48節の言葉です。神は「身分の低い、この主のはしためにも、目を留めてくださったからです」。
 マリアはローマ帝国支配下にあったパレスチナの片隅にあるナザレの村の出身の普通の村人、貧しい女性であり、この時20歳になっていない、おそらく10代前半だったともいわれています。しかも大工であったヨセフと婚約中でした。しかし、そのマリアに「おめでとう」と天使が現れ、受胎告知と呼ばれる出来事が起こり、驚きながら受け入れていったのです。
 マリアの生きた時代は、このマリアの賛歌にみられるように権力ある者が傲慢に支配し、豊かな者が全てを独占していく時代でした。人が権力や財産、何か誇れるような強い力、能力や健康、業績、人がうらやむような何かを持つことが幸せであり、それを持つことを追求し、それがなければ、人間は価値がない、意味がない、どうでもよい存在だとみなされた時代だったのです。それは私たちの生きているこの時代にも起こっていることであり、私たちもいつのまにかその見方に巻き込まれてしまうのです。
 しかし、神さまは身分でもない、性別でもなく、この貧しいものに目をとめてくださいました。今まで偉大な神は偉大な人々にしか、権力ある者や富める者にしか、目をお留めにならないと思っていたのに、そうではなかった。この貧しい私に目を留めて、心にかけてくださった。そして偉大なことをしてくださった。そのようにして神さまはこの私を愛してくださった。マリアはそのことを実感し、驚きとなり、喜びとなったのです。
 私たちも一人一人神さまに愛されています。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。自分自身をどんなに価値のない自分、劣等感や虚しさを抱えどうでもよい存在に思えたとしても、神さまは愛し、受け入れてくださっています。だから、私たちに大事なイエス・キリストを与えて、神さまに愛されていることを教えてくださいました。
 見通しのつかない厳しい現実、悲しい出来事の中で、私たちを支え、生かし、力を与えていくのは、マリアのように、私たちも神さまに目をとめていただいている存在であり、心にかけられている存在であり、神さまに愛されて必要とされて用いられる大切な存在であるということです。私たちも神さまに招かれ、愛されていることを感謝して、クリスマスを迎えていきたいのです。